一般的風習
ムハンマドの閉ざされた心の扉が、アーイシャに向けて開かれたのは、そういった腹心の友の娘であったからこそと考えられるが、それ以上にアーイシャが聡明で、魅力ある可愛らしい少女であったからなのである。
彼女はイスラームの時代にマッカに生れた。創教4年か5年のころであった。
父親がムスリムであったからというだけでなく、彼女もまた姉のアスマーも、いまだに数えるほどしか信徒のいなかった時代にイスラームに帰依(きえ)した敬虔(けいけん)なムスリマであった。
ムハンマドは、彼女を幼いころからよく知っていた。自分の大切な娘のように思っていた。目の前で、彼女はどんどん大きくなっていき、明るい頭の回転の良い少女と成長していった。正しい言葉遣いや、堂々と正しい主張をする態度は、マフズーム一族が彼女の養育を受け持ったからであろうか。
ムハンマドの彼女に寄せる深い愛情のほどは、婚約後に母親のウンムルーマーンにこう言って注意するほどであった。
「ウンムルーマーンよ、私が彼女のなかに棲(す)んでいると思って彼女を大切にしてください」
ある日、アーイシャが怒っているのを見たムハンマドは、母親を軽くたしなめ、
「ウンムルーマーンよ、彼女を私と思ってくださいと頼んだではないですか」
と言ってアーイシャの肩を持ったのであった。
マッカでは、この親しい友人の間を結んだ縁組の知らせを聞いたとき、驚いた様子はなかった。それどころか、期待どおりの出来事として受けとめていた。
預言者に敵意を持つ人びとさえ、何も言うことはなかった。激しい敵意を持つ人びとの、誰一人としてムハンマドとアーイシャの結婚をとりたててとがめはしなかった。
事実であろうと、つくりごとであろうと、ことあるごとにどんなさ細なことでも彼をやっつける材料となると思えば、絶対に見逃さない彼らであるのに……。
実際、この結婚に何かとがめられるような点があったであろうか?
アーイシャのように幼い、7歳にも達するか達しない少女との婚約を、とやかく言う人もいるかもしれない。しかし、彼女は当時、すでにジュバイルと婚約していた。アブーバクルがジュバイルの父との約束を解消するまで、ハウラに何も言えなかったのはこのためである。
また、彼女のように幼い少女と、53歳になる中年の夫との結びつきをとやかく言う人がいるかもしれないが、これにもどんな不思議があるのだろう? 父親のような年の男性と結婚する女性は、彼女が初めてであったわけではない。他にもそういう女性はずいぶんいたではなかったか。
長老、アブドルムッタリブが、アーミナの従妹(いとこ)にあたるハーラを妻に迎えた日は、彼の一番末の息子アブドッラーが、ハーラと同じくらいの年齢のアーミナと結婚したその同じ日であったという。
またオマルが、アブーバクルに娘のハフサを嫁がせたいと申し出たとき、この二人の年の差も、ちょうど使徒とアーイシャの年の差くらいあった。
しかし、その結婚が行なわれた当時から何世紀も経たいま、西欧の学者の中には、時代と風俗の移りを無視して、その点だけを、「中年の夫と幼い処女との不自然な組合せ」と言う人も多い。
そして、好色のめがねを通してヒジュラ(注2)以前のマッカで行なわれた結婚を今日の西欧での出来事と比べて見ている。
現在西欧では、一般に女性は25歳前に結婚することは少ないが、その年齢には現在でもアラビア半島では遅いとされている。これは半島だけに限らず、農村や、東部、西部のベドウィンの間でももちろんである。
また、ある学者が、半島を訪れたさいに認識し、帰国後つぎのように述べている。
「アーイシャは、幼い年にもかかわらず、一般にアラブの女性たちがそうであるように、非常に早熟であった。アラブの女性たちは20歳を過ぎると老け始めてくる。しかし、この婚姻に関してはムハンマドの伝記を書く人びとは、今日、自分たちの生活する社会の目でそれを見つめ、このような婚姻がいまだにアジアでは普通に行なわれていることにふれていない。
また、この習慣は、東ヨーロッパでも、現在も残っているし、またスペインやポルトガルではつい最近まで当然のこととして行なわれていたし、合衆国のある山岳地帯では今日でも不思議なことではない」
(注2) |
移住。ここでは622年に行なわれたムハンマドのマッカからヤスリブへの聖遷のことである。この出来事を記念してこの年を元年とするヒジュラ暦(イスラーム暦)が始まった。 |
転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳
(2007年4月27日更新)
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