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第2章
【ハディージャ・ビント・フワイリド−その4】
 

啓示

 やがて重大な出来事が起ってくる。この出来事は、この平和な家庭のみならず、クライシュ族やアラブ民族のみならず、全人類の上に起きた重大事であった。ムハンマドが神(アッラー)の啓示を受けたのである。ムハンマドに重い荷を投げかけた警告であった。彼は人びとの中に警告者として遣わされたのである。

 啓示は新しい生命の知らせであった。困難な前途の宣告でもあった。圧迫に会い、迫害を受けて始まり、戦い抜き、やがて勝利が訪れる……。

 事実、この大きな出来事が、突如としてアラブ民族に起ったわけではなかった。アラビア半島では、すでに待たれている新しい預言者の到来を予告する知らせがあちらこちらに伝わっていたし、到来しつつある神(アッラー)の福音について語る人びとや祭主は多かった。

 特にマッカは巡礼の聖地であり、遠い昔から信仰の中心となっているカアバをめぐって、そのような人びとが好んで集まるところであった。

 同じように、この重大な出来事は、ムハンマドの上に突如起きたわけではなかった。良き妻の理解のもとに、生活が安定して経済的にも恵まれると、彼はひとり瞑想に耽り、静かに物事を考え込むようになっていた。それは昔、少年のころから彼のうちにみられた傾向でもあった。羊を追っていた日々、ひまな時に好んで彼がそうして過ごした……そして、日々の生活に追われて遠ざかっていたものが、新しくまた根強い本性のように、あたかも彼の本来の彼の一部であるかのように現れたのであった。

 しばしば彼はカアバについて考えた。特にカアバにまつわる出来事は、マッカの歴史をまた彼の家系の歩みを生み出したものであり、また父アブドッラーとアラブの先祖イスマーイールとの間は、何世紀もの長い年代を越えて結ばれているのであった。アブドッラーの犠牲の話は、最初の犠牲の物語の、あの遠い昔のイブラーヒームの息子の記憶をしのばせるものであった。

 真理の光が彼に訪れる時が来た。カアバに集められたこの偶像神群、聞きもしない、見もしない、善きも悪しきもなさないこれらの偶像を、彼は否定した。石像に愚劣な祈りを捧げ、自分たちの手で造った邪教の像に供物を捧げては、自分たちを守る神としているこの民の、そのあさはかな知性を心苦しく思うのだ。

 深い瞑想に耽った彼は、秘中に偏在する非常に繊細なものを知った。夜の闇の向うに閃くもの、砂漠の権威のうしろ、光の明るさの向う、大空のその向うに君臨するもの、その偉大な力が、この宇宙を精密に統制された理法として握っているのを……太陽は月に追いつくことはなく、夜は昼に先んずることはなく、すべてが軌道にのって動いている……と。

 40歳に達するころになると、彼はヒラーの洞窟に籠り、偉大な真理の力、秘中の力に導かれるように感じならが、精神の修業に孤独な時を過ごすのであった。年も経て、人間としても、母親としても完成されていたハディージャは、時おり彼女から離れていくこの孤独な夫の瞑想生活に悩むことはなかった。むしろ純粋な瞑想を妨げることのないよう心がけていた。そして家庭ではひたすらやさしく気を遣って夫に尽すのだった。ヒラーの洞窟に籠る時には、遠くから心を配り、おそらく彼のあとに人を送って身に危険のないようにと見守らせていたことであろう。

 このように、天啓を授かるすべての準備が整い始めていた。しかしこの万端な準備にも反して、啓示が降りた時には、やがて現れる預言者の知らせが行き渡っていたこの地は、大揺れに揺れ動いたのであった。

 ムハンマド・イブン・アブドッラー。絶対にカアバの偶像神崇拝に満足せず、必ずいつかは無知なこの民の生活が変えられる時が来ると信じていた。その約束された預言者なる人をもふるえあがらせたのであった。

 ヒラーの洞窟に坐っていた彼は、啓示が降るや、薄暗い夜明けのなかを、怖れおののきながらまっ青になって家路を求めて駆けた。妻ハディージャの部屋にたどり着き、やっと救われたかのように安堵した彼は、ふるえる声で一部始終の出来事を伝えると、自分の恐怖を吐き出すように彼女に救いを求めるのだった。

 一体、夢を見て、戯言(たわごと)を言っているのか、それとも気が触れたのか?

 ハディージャは夫を胸に抱きかかえた。おののき苦悩している夫の姿を見て、彼女の胸の中には深い母性の感情があふれた。

 彼女は力強く、きっぱりと言った。
「神(アッラー)はきっと守ってくださることでしょう。お喜びなさい。そしてしっかりなさって下さい。ハディージャは神(アッラー)に誓って叫びます。あなたがこの民族の預言者となられることを望みます。神(アッラー)はけっしてあなたをお見離しにはなりません。あなたは人びとと深い愛で結ばれている人、けっして偽りを言わない人、あわれな人を助け、客人を大切にし、正しい真理をかかげる人なのですもの……」

 恐れは消えた。夢を見ているのでもなければ、気が触れたのでもなかった。ハディージャの優しい声が朝の光とともに彼の心にさし込み、確かな自信と安らかさを与えてくれた。彼は安らぎを覚えた。

 彼女は夫を床に誘うと、まるで母親が大切な息子を寝かしつけるように休ませ、安らかな眠りに落ちた彼をしばらくの間見守っていた。慈しみと、尊敬の念に満ちた彼女の愛の心が、そんな彼の周囲をとりまいているかのようであった。やがて立ち上がると、静かに部屋を抜けたハディージャは、人気のない道を従兄(いとこ)のワラカ・イブン・ナウファル(注6)のもとに急いだ。

 マッカの街は、まだ朝の眠りにおちていた。やがてすべてが朝の光に、その一日を開き始めようとしていた。

 ハディージャが訪れると、年老いた身体を横たえたままに彼女を迎えたワラカは、彼女の話を聞くやいなや、全身を強く震わせた。弱りきった彼の体に生き生きとした力が湧きあがってきたかのように力をこめて、熱っぽく叫んだ。

「聖なるかな、聖なるかな、ワラカは神(アッラー)に誓って言います。もし本当なら、ハディージャよ、ムーサー(モーゼ)やイーサー(イエス)に現れた大天使が彼に訪れたのだ。彼こそ、この民族の預言者なのだ。彼に恐れないでしっかりするよう伝えなさい」

 ハディージャはそれ以上言葉を待たず、それ以上何も言えず、その喜びを伝えようと、愛する夫のもとへとんで帰ったのである。

 夫の眠りを妨げたくなかったハディージャはそのそばに腰をかけて、安眠している夫をやさしく見つめていた。

 突然、床のなかからとび起きたムハンマドは、額を汗でびっしょりさせながら、苦しそうにもがいた。やがて静かな落着きをとり戻した彼は、まるで姿なき者の声を耳にしているかのようであった。そしてゆっくり投げかけられた言葉を復習するかのようにつぶやいた。

「外衣にくるまった者よ、起き上がって警告せよ、汝の主を讃えまつれ、汝の衣を浄(きよ)めよ、罪をおかすことをさけよ、より多くを得ようとしてほどこしをしてはならぬ。汝の主(アッラー)のため、堪え忍べよ」……クルアーン第74章(アルムッダシル)1〜7節。

 ハディージャは夫を抱きかかえると、ワラカの言葉を伝えた。感謝の心で妻をみつめるムハンマドであった。彼の生涯を、愛と希望と平和で満たしてくれたその人を、じっとみつめる彼の瞳は、溢れでる感激がいっぱいであった。

 視線を移して床をみつめると、心を打たれた者のように彼はこう言った。
「ハディージャよ、眠りの時代は終った。大天使(ジブリール)が私に人びとへの警告と神(アッラー)への信仰を呼びかけるよう命じたのだ……。しかし私が呼びかけたとて、誰が答えてくれるであろうか」

「私が答えます。ムハンマドよ、どうぞ、どの人びとに呼びかけるよりも先に、私に教えを説いて下さい。私はあなたのムスリマ(注11)です。あなたの啓示を信じ、あなたの神(アッラー)を信じます」

 彼女は、情熱をこめてこう答えたのである。愛妻を祝福し、静かな心の安らぎをとり戻したムハンマドは、彼女の勧めに従って、ワラカに会いに出かけた。

 ワラカは近づいて来るムハンマドを見て叫んだ。
「神(アッラー)に誓って申します。あなたはこの民族の預言者です。うそつき呼ばわりされ、迫害され、追い出され、はては戦いもいどまれるであろうが、もし私がその日まで生き長らえることができたなら、私は神(アッラー)が告げられたことを守って、全力を尽して必ずお助けいたしましょう!」

 そして、顔を寄せて額に口づけをした。

 ムハンマドは聞き返した。
「人びとが私を追い出すのですか」

 ワラカは答えた。
「その通り、敵を持たずにきた男(預言者)はいなかった。私は若くなりたい。私は生きていたい!」……と。

 ムハンマドの心から疑惑の霧がとけ、ワラカの言葉に確信を得た彼は、イスラームの布教のためには、どのような圧迫や迫害にも立ち向かおうと、聖戦の決意をかためつつ、家路に戻るのであった。いうまでもなく、クライシュ族の人々は、彼らの信仰が非難され、先祖から彼らの神々として奉ってきたものを、さげすまされることを、こころよく思わなかった。

 夫、選ばれたる預言者を信じて、忠実な妻は何年にもわたる迫害の受難をともに耐えながら、常に励ましと協力を惜しまなかった。ムハンマド一族との絶縁を記した文書をカアバにかかげて、クライシュ族が許されぬ戦いを布告したのちには、一家はアブーターリブ山麓へ逃れざるを得なかった。

 ハディージャ夫人はなんのためらいもなく、夫に従ってマッカを去った。幼少の頃から親しんで、思い出のたくさん残るその住みなれた館も捨て去って、夫であり預言者である人のため、断固立ち上がったのである。すでに彼女の齢(よわい)は高く、年老いた身に迫害の重荷を受けて身体は弱まっていた。

 アブーターリブの山麓にのがれて3年、夫や夫に同調する人びととともに、苦難の日々を耐えしのびつつ、60歳を過ぎてめっきり衰えた身体にむち打ちながらも、彼女は懸命に生きようとした。ひたすら夫を守り、孤立したその戦いを、ともに戦いぬくためである。

 この戦いは、武器を持たないわずかな味方に、根強い邪教の圧力と、数知れない有力なクライシュ勢を相手取っての戦いであった。

(注6)  キリスト教徒。ユダヤ教やキリスト教の聖書に深い知識をもち、ムハンマドにかなりの影響を与えた人であるといわれている。
(注11)  神(アッラー)への帰依者。すなわちイスラーム教徒のことであり、女の信徒をムスリマ、男の信徒をムスリムという。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年3月9日更新)














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