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第2章
【ハディージャ・ビント・フワイリド−その3】
 


幸福な結婚

 マッカでは、月日が忙しく過ぎていった。財物を所有する者たちは、儲けや損失の精算に余念がなく、商人たちは家庭に戻って、危険も多かった長い旅の疲れをいやしていた。

 精算が済むと、所有者と商人の間の縁は切れていったが、おそらくハディージャとムハンマドの間には、二人を結んだきずなが残っていたのであろう。

 ハディージャは、すでに世の経験も深く、男性を見る目もできていた。以前に二度結婚をした経験があった。二人ともアラブの立派な家柄の男性であり、一人はアティーク・イブン・アーイズ・アルマフズーミー、もう一人はアブーハーラ・イブン・ズラーラ・アッタミーミーであった。そして商いを依頼して中年の男性、若い青年と、何人もの男を雇った経験もあった。

 しかしいままで一人としてムハンマドのような人に出逢ったことはなかったのである。彼女は想い耽った。旅の話をする彼の深い魅力をたたえた声が耳に響いてくる。生命力に溢れて、気品高く彼女に向かって来るその姿が目に浮かぶのであった。

 ハーシム家の青年ムハンマドに逢ったときのことを憶いめぐらしているうちに、彼女は突然、それが重大な問題であることに気づいて、その感情に怖くなり、震え、うなだれて自分の気持に問いかけるのであった。
「すでに遠のいてしまった青年、遠のいていく青年に、どうしてこんなに心を奪われるのだろうか。恋をしたのであろうか。恋の心が長い眠りののちに目を覚ましたのであろうか」

 男性との生活を離れていらい、自然のなりゆきのように一人暮しの生活を続けていた彼女は、心の返答に出合って、この感情をどうすればよいのかわからず、ただ怖くなってうろたえるのであった。

 クライシュ族の由緒ある家柄の男性たち、マッカの金持階級からの再婚の申し込みをすげなく門前払いしてきた彼女がムハンマドに心を奪われたと知った人びとはどうみるであろうか。

 おかしなことだ! 自分はすでに人びとのことを気にしている。ムハンマドの気持も知らないうちに……。一体、今日に至るまでマッカの乙女たちや、ハーシム家の花のような娘たちから身を退けている彼が、四十に届いた中年の未亡人の感情に答えてくれるであろうか。恥じらいに似た後悔が彼女を襲った。なんと自分は彼にとって母親にも等しい年ではないか……。

 もしアーミナが生きていたら、今でも40歳は越していない年齢であろう! それに自分はいまだに育児に忙しい母親の身でもある。最初の夫アティークは年頃の娘を一人、二度目の夫アブーハーラはまだ幼い息子を残して逝った……。

 そんな想いに悩んでいる彼女の所に、親しい友人のナフィーサが訪ねて来た。うちひしがれて悩みぬいているハディージャの胸のうちを感じとったナフィーサは、事をそんなにむずかしくは考えなかった。クライシュ族のなかでも彼女ほどの評判と家柄をもち、なおかつ富にも美貌にも恵まれた女性はあまりなく、すでに数多くの男性たちが、できることならと彼女との結婚を望んでいるのを知っていたからである。ナフィーサはある決意をかためて彼女のもとを去った。

 彼女はムハンマドを訪れたのであった。
「なぜ若いのにこんな淋しい生活をするのですか。いかがでしょう。やさしくいたわってくれる妻を迎えて、ともに暮す気はないですか」ともちかけた。

 身寄りのない青年は、6歳の時母を失って以来、味わってきた苦しみを思い起し、こぼれそうになる涙を押えて微笑みを繕って答えた。
「私には、結婚するにも何もないのです」

 すぐに彼女は話を続けた。
「もしその人が美しくしかもお金持で評判の良い人であったら、それでも考えないの?」耳を傾けようとも思わなかったナフィーサの話がカアバの管理者でもあり、評判のよい人柄の美しい婦人、あのハディージャのことを指しているとわかると、さすがに気にかかってきた。あの人の申し出に答えないはずがあろうか……。しかしあの人が本当に申し出てくれるだろうか。

 ナフィーサはムハンマドの心に気になる問題を残して去っていった。彼は、ハディージャの面影を懐かしく思い浮かべてみた。ひとりになったムハンマドのまぶたには、彼女の明るい、優しい微笑みに満ちた表情が浮かんでくるのであった。

 クライシュ族の名もあり富もある人びとに対する彼女の返答を知っていた彼は、自分の現実をみつめ、自分のその想いが遠のいていくのを心さびしく感じるのであった。カアバに向かって歩いていると、途中の道で巫女が立ち止まって彼を呼びとめた。
「婚約に来たのですか。ムハンマドよ」

 彼はいつわる気持もなく「いや……」と答えた。しばらく考え込んでいた巫女は首を振りながらこう言った。
「どうしてなのですか。神に誓って申しますが、彼女に満足しなければ、クライシュ族のなかに満足できる婦人はいないですよ」

 まもなくして、ハディージャからの結婚の申し出があった。早速それに答えてムハンマドは、アブーターリブとハムザの二人のおじに付き添われて、ハディージャのもとに向かったのだった。

 ハディージャ邸では人びとが集まって花婿を待ち受けていた。急ごしらえの婚礼の準備は、すべてそろっていた。おじのアブーターリブはこう話しはじめた。

「ムハンマドはクライシュ族のどの青年よりも優れた人物である。人格、気だて、ふるまい、そして知性、彼と比較しうる青年は他にあるまい。金銭的には恵まれていないかもしれないが、富というものはやがて消えてゆくものにすぎない。彼にはハディージャと結ばれたいという意志があり、それはハディージャも同様である……」

 ハディージャのおじアムル・イブン・アサドは彼をほめたたえて、20バクルのサダーク(結納金)で二人の結婚を認めた。

 婚姻の契りが終るとザバハ(注5)が始められ、タンバリンが鳴った。ハディージャ邸は人びとや友人たちのために開放された。つめかけた人びとの中には、ムハンマドを育てた乳母でそのめでたい姿をひと目見ようと、サアド部族のベドウィン部落からやって来たハリーマもいた。翌朝、ハリーマの出発の際には、40頭の羊が愛する夫ムハンマドを育ててくれた人への花嫁ハディージャからのお礼として贈られた。

 ムハンマドの目には光るものがあった。母アーミナを失っていたムハンマドは、今や手許に優しく過去の痛手をいやしてくれる人を得たのである。長かった苦しみにとってかわる美しいものを彼はハディージャのなかに見るのであった。

 この幸せな夫婦の誕生をマッカではただムハンマド・イブン・アブドッラーとハディージャ・ビント・フワイリドの二人が結ばれたという程度で、とくに関心を示した様子はなかった。

 しかし15年の後にこの結婚の日を、歴史が栄光の日々のなかに記録するのである。ある時は、この夫婦にマッカの人びともうらやむ幸福な生活を、後世にも言い伝えられるような美しく清らかな日々を残してくれた。この幸せに浸った二人の15年に、神(アッラー)はより完全な幸福を授けてくれた。二人は息子たちと娘たちに恵まれた。アルカースィム、アブドッラー、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、そしてファーティマと。

 この間、時は寛いだ平和な生活をふたりに与えてくれた。過去の身よりのない日々の辛い思い出に代わって、優しく湧き出る愛の泉が、ムハンマドに潤いを与えてくれた。しかしそれはまた、重い荷を背負って厳しい戦いを迎えねばならぬ明日のために、つけ加えられた序幕の日々でもあったのである。

 すでにこの時期に二人は最愛の息子たちを失うむごい運命に出会っていたが、この運命はすべての人々が飲まねばならぬ苦い杯であり、二人の子供たちは神(アッラー)から預けられたものにすぎず、いつかはその運命のもとに返すべきものであると、二人は愛と忍耐でその悲しみに耐えたのである。

 (注5)  羊などの動物をイスラーム法に従って屠殺することである。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年3月2日更新)














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