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第2章
【ハディージャ・ビント・フワイリド−その1】
 


辛い思い出

 少年は、立派な若者に成長した。当時では、ハーシム家の彼のような若者たちには楽しい人生が約束されていたはずなのに、彼は遠い昔の記憶を呼び起すたびに、人生の苦さをしみじみと味わうのであった。

 その記憶は、たえずよみがえっては、18年もの年月を引き戻すのであった。

 ……マッカとヤスリブの間、荒涼とした砂漠の一地点で、母アーミナの前に残された自分を思い出す……。

 母の身体から、徐々に徐々に離れていく生命、そして、それは永遠に消えてしまった。

 18年という月日はたっても、いまだに辛い思い出であった。アルアブワーのこの大切な母の遺体を埋めた墓の上にうつ伏して、身を投げかけている自分の姿が、今も目にうつるのであった。それは悲しみに打ちひしがれた自分の姿であった。

 遺体が埋められ、土が盛られた後には、母をあいま見ることも、求めることもできず、孤独な冷たい暗い闇が戻ってくるだけであった。

 生活の諸々の用事に追われて、時には悲しみを忘れることもあったかもしれない。また人生のめまぐるしい動きがその最愛の人を奪った不幸を片時彼に忘れさせたかもしれない。しかしすぐにまた、その悲しみは戻ってきて、遠い昔の日々を思い返して胸を打つのであった。北に向かう道、砂漠に眠る母の墳墓に通じる道を、悲しみの重さに疲れ果てながら戻るのであった。

 マッカにある今は空家となって荒れはててしまった生家、自分と母が、昔住んだことのあるその家の前を、幾度となく通り過ぎてみたことであろう。

 また、マッカの郊外まで、家畜を追って何度も出かけたことがあったが、その度に、夕暮どき、家路に向かう時刻になると、マッカの町の入り口に立ちどまっては、自分が最初のヤスリブへの旅から帰ってきた時のことを思い出すのであった。

 一人ぼっちで淋しく、しかも孤児という身の上になって、女中のバラカの後を黙って従って歩いたときのことを……。

 バラカは彼を連れて、祖父の家、アブドルムッタリブのもとに急いだのであった。

 心やさしい祖父は、両親を失ったこの幼い孫の傷ついた心を慰めようと、まる2年の間、手をさしのべて、できる限りの努力を重ねてきた。しかし父を奪い、母を奪って少年の心を痛めつけた別れの運命は、またもやハーシム家の人々のもとに訪れた。別れの運命は、彼らの大黒柱であるアブドルムッタリブの床にやって来て、その旅立ちを告げたのである。

 少年は、またもや悲しい境遇に出会ったのである。実父亡きあと、父となってくれた人のいま消えようとする生命を見つめていた。

 恐ろしく悲しいなかで、少年は息をひきとる寸前の祖父の声に耳を傾けていた……。祖父は、アブーターリブ(注1)を枕もとに呼び、少年ムハンマドのことを頼み、そして逝った……。

 少年はその後、新しい家に移った。おじのアブーターリブが、少年の3番目の父となって世話をしてくれることになったが、いつまでたっても、少年の心は、母の眠るアルアブワーにひかれるのであった。

 ハーシム家の少年たちの遊び騒ぐ声を聞いても、砂漠の中で、彼の耳に、心にこだましたあの恐ろしい響きの音を消し去ることはできなかったし、また、マッカの聖地をめぐって集まる人びとのにぎやかな生活を眺めても、アルアブワーからほど近いところで、目の前に母の死をみた時の辛い思い出を消し去ることはできなかった。

 彼は夕暮時の砂漠にぼんやりと立ち向かった。孤独の静けさに暮色がまわりを取りまくと、そのなかに深い沈黙が悲しく息づいているのを感じるのであった。薄やみが拡がると、気をとり直して彼はおじの家に帰るのであった。しかしそこにも確かな別れの到来を感じていた彼であった。

 そして、ついにこの家を出るときがきた。彼はここで十数年を過ごしたのであったが、多くの子供たちをかかえていたおじには、それ以上彼の面倒をみることは不可能になったのである。

 しかし彼は何処(いずこ)へ行かんとするのであろうか?

 とりあえずシリアへ向かうことになった。

 それはちょうどある朝、陽の登るころであった。好い仕事になる旅の話をもちかけて、おじが次のように言ったからである。

「甥(おい)よ、私は貧しい男だ、きびしい年が続いた辛い年月であった。我々には金もなければ商いをする物品もないが、クライシュの隊商はすでにシリアへ出発の準備ができている。ちょうどハディージャが彼女の商いをうけもって利益をあげてくれる人を捜している。もし、おまえが申し出れば、誠実な人物として知られているおまえのことだ、彼女は他の誰よりもおまえを望むことであろう。おまえがシリアへ行くことについては、私はユダヤ人が危害(注2)を加えはしないかと気になるのだが……。彼女は誰かを2バクル(注3)で雇ったと聞いている。もちろんおまえにも同額を与えるのなら私は不満であるが……、よければ私が彼女に話をしてみようか」

 ムハンマドは、ぜひそうしてほしいと望んだ。

 おじアブーターリブが、ハディージャに話をして、ムハンマドの出発が決まったのであろうか、いよいよ彼は旅立つことになったのである。これといってはっきりとしたあてのない将来を神(アッラー)に委ねて……。

(注1)  アブーターリブとムハンマドの父、アブドッラーとは、父をも母をも同じくする兄弟である。
(注2)  イブン・イスハークの使徒伝によると、ムハンマドがまだ少年だったころ、アブーターリブはシリアへの旅に彼を連れていった。このとき、バヒーラという名のキリスト教の修道士から、この少年をユダヤ人から守るようにと注意を受け、この少年の将来には何か偉大なことがあると予言された。
(注3)  バクルは若く壮健なラクダ一頭といわれる。

転載: 宗教法人日本ムスリム協会 「預言者の妻たち」
アーイシャ・アブドッラハマーン 著
徳増 輝子 訳

(2007年2月16日更新)














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2007年 アラブ イスラーム学院