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「クルアーン」第1章の解説
 

筆者:中田香織
山口大学公開講座「ヒューマンスクール」講義録
(1999年、「異文化との出会い」に掲載されたもの)

第1章:開端[アル=ファーティハ]

慈悲あまねき慈悲深きアッラーの御名において(1)
諸々の世界の主アッラーに称賛あれ、(2)
慈悲あまねき慈悲深き御方、(3)
審判の日の主宰者に。(4)
あなたにこそ仕え、あなたにこそ助けを求める。(5)
我らをまっすぐな道に導き給え、(6)
あなたが恵みを授け給うた者たちの道に、
あなたの怒りに触れた者たちや迷った者たちのものではなく。(7)

(1) 慈悲あまねき慈悲深きアッラーの御名において
アラビア語では、「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム」と言います。

 クルアーンは約20年にわたって断片的に啓示された言葉を集めたものですが、啓示の順番に従って並べられてはいません。一番最初に啓示されたのは、第98章の最初の数節で、それは「イクラッビスミラッビカッラズィーハラク」で始まっています。「読め、創造し給うたおまえの主の御名において」という意味です。アッラーの御名においてクルアーンを読め、という命令で啓示が始まったのです。そのため、クルアーンの114章は(第9章を除き)すべてこの「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム」で始められます。

 また、クルアーンを読む時ばかりでなく、ムスリムはすべての行いをこのビスミッラーと共に、つまりアッラーの御名と共に始めます。なぜなら、アッラーに因らない行為は何一つないからです。私もこの講演をビスミッラーで始めましたが、私にこういう機会を与えたのもアッラーならば、私が用いるこの口も声も手も、すべてアッラーから与えられ、アッラーによって用いることを可能とされたものです。私が私の口で語る、と言うとあたかも、私が主体で、私が私の力でなにかをなしているかのようですが、本来「私のもの」と言えるものは私自身の身体を含め何一つなく、すべては神からのいただきものであり、神のお許しなしには何一つなし得ないのです。ビスミッラーとはそのことを認める謙虚さの表明です。

 また、すべてが神からのいただきものであり、神のお許しなしには何事もなし得ないとすれば、どんな行為も神に返されなければなりません。私の体が神からの授かりもの、預かりものであるなら、その真の持ち主の意志に従ってそれは用いられなければならないのです。ビスミッラーと共に行いを始める時、ムスリムはその行いがアッラーの意志に沿ったものであるかどうかを自問することになります。ビスミッラーと言って食事を始めることは、その食事がアッラーからの恵みであり、アッラーから許された食べ物であることを確認することです。あるいは、ビスミッラーと言って家を出ることは、行き先がアッラーから許された場所であることを確認し、その道中においてアッラーの守護と祝福を願うことです。泥棒が盗んだ食べ物を食べる時、あるいは、これから泥棒をしようと家を出る時、ビスミッラーと言うことはできません。ですから、ビスミッラーと言うことは、アッラーの意志に反する行為をなすことから、ムスリムを自然に守ってくれることになります。

 さて、ビスミッラーには続きがあります。アッラーの御名において、ですが、そのアッラーは、慈悲あまねく慈悲深い御方である、と形容詞が続くのです。「アッラフマーン」「アッラヒーム」ですが、これは、「ラヒマ(慈悲)」という言葉から派生した2つの形容詞で、日本語では、「慈悲あまねき方」と「慈悲深い方」というふうに訳しわけています。

 どう違うかというと、ラフマーンの方は、無差別的な慈悲です。アッラーの慈悲は、ちょうど太陽の光や雨が無差別に降り注ぐように、善人悪人の区別なく、信者不信者の違いなく、等しくすべての生き物の上に降り注がれています。どんな生き物もこの慈悲の外では一瞬たりとも生き得ません。空気がなかったら一瞬たりとも生きられないのと同じことです。私がこの一刻を生きているそのこと自体、すでにアッラーの大きな慈悲の印であり、恵みであり、つまり感謝すべきことなのです。
 アッラーが私たちに導きの書を下し給うたのも、慈悲の現れです。ですから、その慈悲を思い起こしつつ、ビスミッラーヒッラフマーニッラヒームと言ってムスリムはクルアーンを読むのです。

 一方、ラヒームの方の慈悲は、差別的な慈悲です。公正なるアッラーは、私たちの行いの度合いに応じて報いをなし給います。善には善を、より大きな善にはさらに大きな善をもって報いてくださるのです。このラヒームの慈悲ゆえにアッラーは、アッラーを信じ、善をなした者に来世において大きな喜びを授け給うのです。つまり、ラヒームの慈悲は信者のみが享受する特別な恵みです。

 

(2) 諸々の世界の主アッラーに称賛あれ
アラビア語で言うと、「アルハムドリッラーヒ ラッビルアーラミーン」です。

 「アルハムドリッラー」、この言葉も、「ビスミッラー」と並んで頻繁にムスリムの口に上る言葉です。例えば、ムスリムはビスミッラーと言って食事を始め、アルハムドリッラーと言って食事を終えます。

 「アル」というのはアラビア語の定冠詞で、英語のtheに相当します。「ハムド」とは賛美、称賛という意味で、「リッラー」はfor Allah、つまり、称賛というものはアッラーのものである、アッラーに帰される、という意味です。

 すべて良いことはアッラーのおかげです。ただし、アルハムドリッラーと言うのは良いことがあった時に限りません。どんな状況においても、どんなことがあっても、やはりそれはアッラーのおかげなのです。今、禍と思えることも、この先それがどう福に転じるか、私たちにはわかりません。「塞翁が馬」の故事にある通りです。ですから、ムスリムは、良いことがあればアルハムドリッラー、悪いことがあってもとりあえずアルハムドリッラーと言って、いずれにしてもアッラーが自分に振り当てたこととして出来事を受け止めるのです。今風に言えば、「ポジティブ思考」といったところです。

 このことは、イスラームの信仰の1つ、「定命」とかかわりがあります。ムスリムは、アッラーによってそれぞれに振り当てられた定命というものを信じます。私たちは、生まれる前から、何才で死ぬか、どのくらいの糧を得るか、どんな行いをするか、天国に行くか地獄に行くか、すでに決まっています。ですから、偶然の出来事は何一つありません。すべてのことは起こるべくして起こるのであり、初めからそうなるように定められているのです。そしてその決定に変更はありません。私たちにとっては明日はまだ来ていませんが、時の外におられるアッラーにとっては(時間もまた被造物であり、創造者であるアッラーはその外におられます)、過去も現在も未来もありません。アッラーの目にはすべては終わってしまったも同然なのです。

 では、すべてが定められており、すべてがすでに起こってしまったも同然だとすれば、私たちの行いはどうなってしまうのでしょうか。私たちは運命にがんじがらめに縛られ、運命に引きずられ、なにをする自由も残されていないのでしょうか。
 預言者ムハンマドが人々に定命について語った時にも、人々は同じように問いました。「いったい、我々の行いはどうなってしまうのでしょうか。」すると、彼は答えて言いました。「思うがままに行いなさい。天国行きと定められた者には天国行きの行いがやり易いでしょうし、地獄行きと定められた者には地獄行きの行いがやり易いのです。」

 天国行きと定められた者はなにをしても天国に行くというわけではありません。なにもしなくてもただじっと待っていれば天国に行くというのでもありません。天国行きと定められた者は自然に天国に至る善行をなし、それによって天国に行くのです。
 いずれにせよ、私の運命がどんなものであるのか、私は知らないのですから、私には真っ白の明日に向かって自分の運命を切り開いて行くような生き方しかできません。私たちに運命を語ることができるのはそれが起こってしまった後だけなのです。

 イスラーム圏の旅行者はよく、ムスリムのいい加減さを象徴する言い回しとして、「インシャーアッラー」という言葉を引き合いに出します。「アッラーがお望みならば」という意味ですが、安請け合いの約束をしておいて、約束を破っても、いや、アッラーがお望みでなかったのだ、と言って開き直るための言葉であるように誤解されていますが、この言葉こそアッラーの定命を受け止める謙虚さの表現です。私が約束の時間に約束の場所に行くつもりでも、それはあくまで私の勝手な予定であり、アッラーの元に書き留められた予定とは違っているのかもしれないのです。「インシャーアッラー、アッラーがお望みなら」、そう言うことは、物事の決定権を持つのはアッラーであると謙虚に認めることです。日本人はとかく「なぜばなる」という思いで自分を追い詰めたり、人を責めたりしますが、それに対して、「インシャーアッラー」は自分、そして相手を許す心のゆとりとなっているような気がします。

 「アルハムドリッラー」とアッラーを賛美する言葉で第1章は始まっていますが、その後に続く2節の後半「ラッビルアーラミーン」、そして、3節、4節はそのアッラーを別の言葉で言い換えたものです。

 2節をアラビア語の語順通りに訳すと、「称賛はアッラーに、すなわち、諸々の世界の主に」となります。この「主」であるということ、アッラーがすべての存在の主人であるということも、イスラームの信仰においてはとても重要な意味を持ちます。5節に「あなたにこそ仕え・・・」とありますが、この「仕える」という動詞「アバダ」を名詞化したものが、「アブド(しもべ)」で、これが主であるアッラーに対する人間を含むあらゆる被造物の立場です。アッラーは主人であり、私たちは主人に仕えるしもべ、つまり奴隷なのです。

 クルアーンの中で、アッラーは人間を作った目的について触れ、『我が人間とジンを作ったのは、我に仕えさせるためにほかならない』と言っています(ジンというのは、人間と同じような高度な知力を持った霊的な存在です)。人間は神に仕えるために作られたのです。ものはそれが作られた目的に一番相応しい形に作られ、本来の目的に沿った使い方をされた時に最も生き生きとするものです。人間も同じです。人間も神に仕えたいという性向を備え付けられ、神に仕えた時に最も充実するように作られています。人間は、自分の信じることや愛することのためには自ら進んで命を投げ出しさえする崇高な精神を持っています。人間には、そのために生き、そのために死んでもいいと思えるような、全身全霊を注ぎ込めるなにかへの渇望があります。その渇望を満たすために、人は愛に走り、芸術に身を投じ、思想を追求し、仕事や趣味に没頭しますが、その渇望の本来の対象は神です。人は神なしには、つまり仕える対象なしには生きられないのです。それで神を知らない者は、その代用物に仕えざるを得ないのです。

 イスラームの信仰はまず「ラーイラーハイッラッラー、アッラーの外に神はない」ということを認めることに始まりますが、この言葉が意味するのは、人間が仕える対象はアッラーのほかにはない、というまさにそのことです。問題は神を信じるか信じないか、ではなく、なにを神とするか、です。人間はそもそも神に仕えるように作られているため、神に仕えずには生きられません。必ずなにかを神とせざるを得ないのです。ここで言う神とは、なにも宗教的な神に限りません。神の存在を信じていない者、つまり無神論者と称する者も、なにかを神としているということです。愛のために生きる者、芸術のために生きる者、会社のために生きる者、お金のために生きる者、それはみな、それらを「神」としているのです。人に過度に頼るのはその人を神とすることですし、欲望のままに行動する者は自分の欲望を神としているのです。そして、それらのいずれの価値も信じられず、仕える対象を持たない者は、心に大きな空虚を抱えています。

 それに対し、イスラームは、神として仕えるべき対象はアッラー、つまり創造主たる神のほかにはいない、と説いているのです。人間は神の奴隷である、というと、自尊心を傷つけられたような嫌な気持ちになるかもしれませんが、この言葉は人間を卑しめるものではありません。むしろ、人間は神のしもべとして作られたのであって、ほかのどんなものにも従属することはない、という人間の解放と尊厳回復の教えです。愛には終わりがあります、芸術の評価は時と共に変化します、会社も潰れます、主義思想も移ろいます。そんな儚いものに仕えることこそ人間の尊厳を傷つけるものなのです。

 日本では、尋常でない力を持った人や動物や物が「神」として祭られますが、イスラームの見地から言えば、そうしたものは神として崇めるには値しません。イスラームはそういうもののもつ霊力を否定しているわけではありません。霊力を持った山や、超能力を持った人や、災いをなす霊的な存在はいます。しかし、それらも所詮は被造物にすぎず、その力の及ぶ範囲には限界があります。それよりも、あらゆるものの主人であり、あらゆる領域のあらゆることに力を及ぼす全能者に仕えた方が賢明だということなのです。悪霊の災いは人が恐れれば恐れるほどその恐怖に乗じて大きくなります。一方、アッラーに守護を求めれば、悪霊の力はたちまち霧散してしまいます。

 アッラーは人間をアッラーのために作り、他の被造物を人間のために作られました。アッラーに仕えず、私たちのために作られたものに仕えることこそ、自分で自分の身を卑しめ、汚すことなのです。

 

(3)慈悲あまねく、慈悲深い御方

 神は人間とその生きる場を造り、さあそこで勝手に生きよ、と人間を放り出したのではなく、生きるために必要なものを日々恵み、幸福になるための手ほどきをし、世話をしてくださっています。「主人」とはそういうものです。一家の主人とは、家族の上に君臨し、威張り散らし、命令を下すための存在ではありません。家族の必要を満たし、庇護し、世話をする責任を負うことが主人の役割です。アッラーもまた同じです。世界すべての主だからといって、ただただ力強い支配者なわけではありません。慈愛ある庇護者でもあるのです。そのことを喚起するためにここでまたアッラーが慈悲ある御方であることが述べられているのです。

 

(4)審判の日の主宰者に

 ムスリムは、最後の審判の日を信じます。
 私たちの明日は無限ではありません。終わりがあります。最後の時が来ると人間は一人残らず死に絶え、その後墓の中から蘇り、アッラーの前に集められ、裁きを受けます。生前の行いが一つ一つ数え上げられ、善悪の量りにかけられるのです。そして、善の量りが重かった者は天国に入り、悪の量りが重かった者は火獄に入り、そこに永遠に留まります。イスラームにおいては信者が天国に入り、不信者が地獄に行くという単純な2分法ではありません。たとえ神を信じ、ムスリムであっても、罪をなした者は、火獄に行き、その罪を清算するまでは天国には入れません。火獄の懲罰には罪の重さに応じて段階がありますが、天国にも段階があり、より多くの善行をなした者がより高いアッラーのお側に行けると言われます。

 ここで少し脱線して、「ムスリム」とはなにかについて説明したいと思います。ムスリムであっても必ずしも真っすぐに天国に入れるわけではないと言いましたが、ムスリムとは、必ずしもいわゆる「イスラム教徒」だけに限りません。狭い意味でのムスリムとは、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」ことを証言した者ですが、広い意味ではそれだけに限りません。そもそも、「ムスリム」とは、服従し、平安を得た者というような意味で、イスラームを日本語に置き換えるならば、「帰依」という言葉が一番相応しいでしょう。つまり、神に絶対帰依した者、それがムスリムなのです。「キリスト教徒」と言えば、それはイエスをキリスト、つまり救世主と信じ、彼に従う者のことを言いますし、「仏教徒」とはブッダの教えを信じ、それに従う者のことですが、「ムスリム」という言葉の意味の中には預言者ムハンマドの教えに従う者であるという意味は直接的には入っていないのです。ですから、ムハンマドのことを知らなくても神に絶対帰依する者がいれば、その人はムスリムなのです。実際、クルアーンの中で、旧約聖書に登場するアブラハムについて、彼は『ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなく、真の信仰を捧げたムスリムであった』(第3章67節)と述べられています。ユダヤ人の元となる部族はアブラハムの子孫から出ていますから、彼自身はユダヤ人ではありませんし、イエス・キリストが現れるのはずっと後の時代のことですからキリスト教徒でもありません。ただ、唯一の神に信仰を捧げる帰依者、ムスリムだったのです。

 ついでに言えば、ムスリムは人間に限りません。すべての被造物がアッラーに帰依し、アッラーを称えています。『7つの天と地、またその間にあるものは彼(アッラー)を賛美する。彼を称え賛美しないものはなにひとつない。ただ、おまえたちはそれらの賛美を理解しないのである・・・』(第17章44節)とクルアーンにある通りです。鳥も木も石すらもアッラーを称えています。また、人間の不信仰者ですら、アッラーが整えた法則に従って生きている点で、つまり、生物学上は、「ムスリム」です。ただ、そのことに気づいていないだけです。イスラームでは不信仰者を「カーフィル」と呼びますが、これは、隠す、という意味の動詞から派生した言葉で、アッラーに対する恩義を忘れた者、隠す者ということです。

 先程、最後の審判の日に、現世での行いが量りにかけられ、善行の量りが重かった者は天国に入る、と言いましたが、実は私たちを天国に入れるのは私たち自身のなす善行ではありません。合格のボーダーラインがあって、それ以上の善行点を取れば自動的に天国行きが決まる、というものではなく、どんな善行をなした者もアッラーの慈悲なしには天国には入れません。

 こんな話があります。500年を礼拝三昧、断食三昧に過ごし、アッラーに背く行いは何一つしなかった男が死んでアッラーの前に連れてこられました。アッラーはその男に向かって、「私の慈悲によって天国に入れ」と仰せられました。自分の積んだ善行にいささか思い上がりのあったその男は、アッラーのその言葉にちょっと不満で、「私の行いによって、ではないのですか」と言い返しました。それを聞いたアッラーは、男の前に量りを持ってこさせ、量りの片方に彼の500年間の善行を乗せました。それからもう片方に彼の片目を乗せました。すると量りはちょうど釣り合いが取れました。つまり、男の500年間の善行は片目が見えることに関して彼がアッラーに負う恩義にやっと見合うものだったというわけです。

 もう一つ、審判の日の量りに関するこれと正反対の話を紹介しましょう。ある男が死んで、アッラーの前に連れて来られ、行いが一つ一つ量りにかけられました。すべての行いが量りにかけられた時、量りはちょうど釣り合いが取れた状態でした。あと一つ善行があれば、量りは善行に傾き、天国行きが許されます。そこでアッラーは男に、だれかから一つだけ善行をもらってくるがいい、と命じられました。そこで男は審判を待つ人々の間を尋ね回ります。「たった一つでいいから善行を分けてくれないか」しかし、人々の答えはどれも同じでした。「私もこれから裁きを受ける身で、人に上げるどころか、こちらがもらいたいくらいだ。」ことごとく断られ続けた男は、もう一人尋ねてだめだったら諦めよう、と心に決めて最後の男に尋ねました。「あなたの善行を一つ私に分けてもらえないか。」すると、驚いたことにその男は、「よし、わかった、上げようではないか」と言うのです。「現世で私は悪いことばかりしてきた。善行はたった一つしかない。1つばかり善行を持っていたところで私には何の役にも立ちはしないだろうから、そいつをおまえにくれてやろう。」と言うのです。男は彼から善行をもらい、喜んでアッラーの御前に戻りました。そして、善行をみつけた経緯をアッラーに説明すると、アッラーは仰せられました。「よし、おまえとその男と手に手を取って天国に入れ。」

 山ほどの善行を積んでも天国に入るには足らない一方で、たった一つの善行でも天国に入るに足る、いずれもアッラーの御心次第なのです。行為に頼る心を捨て、ただひたすら神の慈悲にすがる、まさに絶対帰依がイスラームの信仰なのです。

 

(5)あなたにこそ仕え、あなたにこそ助けを求める

 1節から4節まで、アッラーを称えてきましたが、5節で転調が起こっています。それまで三人称で語られていたアッラーが、「あなたにこそ」と二人称に変わっているのです。二人称とは、目の前にいる者に対して使う人称です。ここでムスリムは、自分のすぐ側にいるアッラーに向かって呼びかけるのです。「あなたにこそ仕え、あなたにこそ助けを求める」。

 2節の説明でアッラーは主人であり、人間を含むあらゆる被造物は彼のしもべであり、彼に仕えるために作られたと言いましたが、人間と神の関係はまず仕え、仕えられるという関係にあるのです。日本人の信仰は、なにか困ったことがあると神様の所に行って、お祈りし、願い事が叶えばお祭りし、願い事が叶わなければ別の神様の所に行く、という御利益信仰です。ひろさちやさんという仏教学者は、日本人の神様を「自動販売機型」の神様だと言っています。100円入れたらジュースが一本、200円入れたら2本、というふうに、こちらが期待してお金を入れたら、入れただけ期待どおりのものが返ってくることが日本の神様には求められているのです。「金をくれ」、「はい、どうぞ」、「病気を直せ」、「はい、かしこまりました」、それではどちらが主人で、どちらが仕えているのかわかりません。しかも、こちらの都合で神様を呼び出し、万事が順調ならば神様はお呼びでない、それが大半の日本人の信仰です。それに対しイスラームの信仰は、人間が神に仕えることが基本にあり、その帰依の現れとして、その神に助けを求めるのです。

 

(6)我らをまっすぐな道に導き給え

 その助けを求める第一声がこれです。「どうか、私たちを真っすぐな道に導いてください。」まず、第一に導きが求められているのです。お金持ちになることや病気が直ることも、もちろんムスリムは祈ります。でも、それよりももっと大切なことは、アッラーの導きを受けることです。どこに至る導きかといえば、天国における永遠の至福に至る道への導きです。

 先に宿命について説明し、偶然に起こることはなに一つないと言いましたが、私がムスリムになったことも偶然ではありません。また、それは私の意志によるものでもありません。アッラーのご意志があり、アッラーの導きがあったからこそ、私はイスラームと出会い、ムスリムとなったのです。また、入信して9年になりますが、今日までムスリムであり続けたのもアッラーの導きが引き続きあったからです。アッラーの導きが途絶えたら、今この瞬間にも私は不信仰に陥るでしょう。ムスリムになることはゴールではなく、むしろそこが始まりです。せっかく本道に入っても、途中で立ち止まったり、横道に逸れては目的地に行き着けません。ですから、絶えずアッラーの導きを祈るのです。

 願い事に関して言えば、アッラーはクルアーンの中で、『祈願する者が祈願する時、我はその祈願を聞き届ける』と仰せられています(第2章186節)。しかし、これは先程の自動販売機の神とは違います。必ずしも願ったままが叶うわけではありません。私たちが望むことが必ずしも私たちにいいとは限りません。アッラーは私たちの祈りを聞き届けた上で、私たちにとってよりよいものを与え給うのであり、私たちは、私たちの望みや都合よりもアッラーのお望みと計画による結果に満足するのです。

 

(7) あなたが恵みを授け給うた者たちの道に
あなたの怒りに触れた者たちや迷った者たちのものではなく

 最後の7節は6節の続きで、「真っすぐの道」とはどういう道かを説明しています。それは、アッラーの恵みを受けた者たちの道であり、怒りを買った者や迷った者の道ではありません。アッラーは預言者ムハンマドを最後の使徒として人々に遣わす以前にも何人もの使徒を人々に遣わされました。しかし、その中のある者たちは、特別の恵みを受け、何度も目の前で奇跡を見せつけられ、何度も窮地を救ってもらいながらも、アッラーの教えから背き去りました。彼らはとうとうアッラーの怒りを買いました。また、別のある者たちは、使徒の教えではない間違った教えを信じ、間違った崇拝を捧げています。それが迷った者たちです。そうした過去の人々の過ちを繰り返す事なく、真っすぐの道を真っすぐに進めるようムスリムは毎日祈るのです。

 この祈りの言葉で第1章は終わりますが、その次の第2章の初めを読むと、こうなっています。『アリフ・ラーム・ミーム。これは疑いのない書物、畏れかしこむ者たちへの導きである。』第1章の「どうか真っすぐの道に導いてください」という祈りの言葉を受けて、第2章の初めでアッラーは、「この本、つまりクルアーンが導きだ。これに従えば真っすぐの道を迷いなく進める」と答えているのです。

 私たちは大抵、正しいものを求めます。好き好んで悪いもの、間違ったものを求む人はそういません。だれもが善を、正義を望んでいるのですが、問題はなにが善か、なにが正しいかがわからないことです。人によって意見が違う、住む土地によって意見が違う、生きる時代によって意見が違う、自分自身でもその時々によって意見が違う、その中で振り回され、右往左往しているわけですが、それに対して、アッラーは、時を越え、場所を越えた真理である私の言葉クルアーンに従いなさい、そうすれば間違いはない、と仰せられるのです。「ラーイラーハイッラッラー、アッラーのほかに神はいない」とはまさしくその意味を言ったものなのです。




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2003年 アラブ イスラーム学院