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【第6章 家畜】
(6:95〜6:110)
 

まことにアッラーは種子と種を裂き給う御方。彼は死から生を出し給い、また、生から死を出し給う御方。それがアッラーである。それなのにどうしておまえたちは背き去るのか。(6:95)

『種子と』 植物を生やすために。

『種を』 ナツメヤシを生やすために。

『裂き給う御方』 割り給う御方。

『彼は死から生を出し給い』 人間や鳥を、精液や卵から。

『死を・・・』 精液や卵を。

『それが』 裂き給う御方、出でさせ給う御方が。

『それなのにどうしておまえたちは背き去るのか』 明証があるのに、どうしておまえたちは信仰から離れるのか。

朝を裂く御方で、夜を休息として、また太陽と月を計算するものとして作り給うた御方。それは威力比類なく、全知なる御方の決定である。(6:96)

ハフス&アースィム版:朝を裂く御方、そして彼は夜を休息として、また太陽と月を計算するものとして作り給うた。それは威力比類なく、全知なる御方の決定である。(6:96)

『朝を裂く御方で』 『朝(al-isbāh)』は派生形第4形の動名詞(朝に入ること)であるが、意味は朝(al-subh)。

『夜を休息として』 被造物が疲れから休息する時。

『太陽と月を』 対格。『夜を』に接続する。

『計算するものとして』 時を計算するものとして。あるいは、前置詞「バーゥ(b)」(「・・・で」)が省略されたもの。つまり、ちょうど、第55章[アル=ラフマーン]5節に、『計算に従って(bi-husbāni)』とあるように、潜在的な動詞「進む(yajriyāni)」の状態の副詞的修飾句である。

『作り給うた御方』 『作り給うた御方(jāilu ジャーイル)』は、ハフス&アースィム版では、「そして、彼は・・・作り給うた(jaala)」と読む。『休息として』は第二目的語(つまり、「彼は夜を休息となし給うた」)、または状態の副詞的修飾句(つまり、「彼は夜を休息として作り給うた」)である。

『それは』 言及したことは。

『威力比類なく』 彼の主権において。

『全知なる』 彼の被造物について。

また、彼こそはおまえたちのために星を、それによっておまえたちが陸と海の暗闇の中で導きを得るようにと作り給うた御方。われらは知る者たちに印を詳細に示したのである。(6:97)

『陸と海の暗闇の中で』 旅行中に。

『知る者たちに』 反省する者たちに。

『印を』 われらの力の証しを。

『詳細に示した』 明示した。

また、彼こそはおまえたちを一人の者から作り出し給うた御方で、定位するものと貯蔵されるものがある。われらは理解する者たちに印を与えたのである。(6:98)

ハフス&アースィム版:また、彼こそはおまえたちを一人の者から作り出し給うた御方で、定位する処と貯蔵される処がある。われらは理解する者たちに印を与えたのである。(6:98)

『一人の者から』 アーダムである。

『おまえたちを・・・作り出し給うた御方で』 おまえたちを創造し給うた御方で。

『定位するものと』 おまえたちのうち子宮に。

『貯蔵されるものが』 おまえたちのうち腰に。(『定位するもの(mustaqirrun)』を)「mustaqarrun」と読めば、おまえたちの定位する場所、ということである。

その場合は『貯蔵されるもの(mustawdaun)』は「貯蔵される場所」を指す。『定位するもの(mustaqirrun)』と読む場合には、「おまえたちの中には」が省かれていると考えられるが、『定位する処(mustaqarrun)』と読む時には、「おまえたちには」が省かれているものと考える(監訳者注:ハフス&アースィム版では、後者の『定位する処』、『貯蔵された処』とする読誦法を採る)。

『われらは理解する者たちに・・・』 自分たちに言われたことを。

彼こそは空から水を降らす御方。それから、われらはそれによってすべてのものの芽を出させ、次いでそこから緑を萌えさせた。われらはそこから累々と穀物を出す。また、ナツメヤシからは、その新芽から詰まった房が。また、ブドウの園と、似ているが似ていないオリーブとザクロを。その果実が実を結び、そして成熟するのを見よ。まことにその中には信仰する者たちへの印がある。(6:99)

『彼こそは空から水を降らす御方。それから、われらは』 三人称から(一人称への)人称の転換が起こっている。

『それによって』 水によって。

『すべてのもの』 生える(すべてのもの)。

『次いでそこから』 植物から。

『緑』 緑色のものを。野菜。

『われらはそこから』 緑から。

『累々と』 それぞれが重なりあう。麦の穂などのように。

『ナツメヤシからは』 述部。(主部は『房が』)

『その新芽から』 (『ナツメヤシからは』を)言い替えたもの。そこから出る最初のもの。

『詰まった』 互いに近くに寄った。

『房が』 ナツメヤシの大枝が。主部である。

『また』 われらはそれによって出でさせた。

『園と』 果樹園と。

『似ているが』 それぞれ葉は。状態の副詞的修飾句。

『似ていないオリーブとザクロを』 それぞれ実は。

『その果実( thamari)が』 『果実』は第1語根「サーゥ(th)」、第2語根「ミーム(m)」を母音「a」で「thamari」と読む読誦法と、両者を母音「u」で「thumuri」と読む読誦法がある。「果実(thamar)」は「thamarah」の複数形(集合名詞)である。「木(shajarah)」が「shajar」、「khashabah」が「khashab」になるのと同じである。

『実を結び』 現れる初めがどのようであるか。

『そして』 それから。

『成熟するのを』 成熟した実となるかを。

『見よ』 おまえたちよ。見るとは考える、という意味である。そうすれば、どのように甦らされるかがわかる。

『その中には・・・印がある』 至高なる御方の甦り、その他の力の証しが。

『信仰する者たちへの』 彼らに限定されているのは、彼らは不信仰者と違って、それによって信仰における益を得るからである。
これらのことは、アッラーの唯一性とその多様な造形の業の証しである。同じ大地から生え、同じ水で成長するものがこれほどの多様性を示すためにはそれを計画し給うた御方がいるはずである。そのことは信仰し、考える者にとっては益のある証しであるが、それ以外の者はその益に与らない。

また、彼らはアッラーにジンの共同者をなす、彼が彼らを創り給うたのに。また、彼らは知識もないまま、彼に息子や娘を捏造した。称えあれ、彼こそは超越者であり、彼らが思い描くものから高く越えた御方。(6:100)

『アッラーに』 第二目的語である。

『共同者を』 第一目的語である。その言換えが『ジン』である。

『ジンの』 偶像の崇拝において彼らに従うのである。

『彼が彼らを創り給うたのに』 かつて(qad)。それなのにどうして共同者などでありえよう。

『知識もないまま、彼に息子や娘を』 ウザイルはアッラーの息子であると言ったり、天使はアッラーの娘であるなどと言った。

『捏造した』 つまり、「うそをでっちあげた(ikhtariqū)」。動詞原形で第2語根に促音を伴わない読誦法(「kharaqū」)と、派生形第2形で促音を伴う読誦法(kharraqū)がある(「kharraqu」は「kharaqū」の強意)。

『称えあれ、彼こそは超越者であり』 彼を超越せしめて。

『称えあれ、彼こそは超越者(subhāna-hu)』という言葉はアッラー御自身の発せられた言葉であり、御自身が御自身の本質を御自身に相応しく、超越せしめ給うたのである

『彼らが思い描くもの』 子供がいるなどという。

天と地を創始し給う御方。どうして彼に子があろう。彼には配偶者がいないのに。また、彼はすべてを創り給うた。そして、彼はあらゆることについてよく知り給う御方。(6:101)

『天と地を創始し給う御方』 両者を前例のないところから創始した御方。

『どうして』 いかにして。

『配偶者が』 妻が。

『彼はすべてを創り給うた』 彼の創るという本質ゆえに。

すべては彼の被造物である。それら被造物をどうして創造主の「子」であるなどと考えることができようか。

これがアッラー、おまえたちの主である。彼のほかに神はない。すべてを創り給うた御方。それゆえ彼に仕えよ。また、彼はすべてに対して管理者であらせられる。(6:102)

『それゆえ彼に仕えよ』 唯一神崇拝を捧げよ。

『管理者であらせられる』 守護者。

視覚は彼を捉えず、彼は視覚を捉え給う。また、彼は愛情細かく、精通し給う御方。(6:103)

『視覚は彼を捉えず』 おまえはアッラーを見ることはできない。それは来世における信仰者の特権である。至高なる御方は仰せられた、『その日、顔は輝く。その主を見つめて』(第75章[復活]22−23節)。また、アル=ブハーリーとムスリムのハディースにも、「いずれおまえたちはおまえたちの主を見るであろう。ちょうど、満月の月を見るように」とある。この意味は、おまえはそれを包括し尽くさない、という意味だとも言われる。

イブン・アッバースは言った、「被造物の視覚は彼を捉えるには弱すぎる」。

これは(アッラーを)見ること自体の否定ではなく、その全てを見尽くすことの否定だとも言われる。

『彼は視覚を捉え給う』 視覚は彼を見ることができないが、彼は視覚を見渡し給う。視覚を捉えることは彼以外の者には許されない。あるいは、彼は視覚を把握し給うが、視覚は彼を捉えることはできず、また彼を知識で全面的に把握することはできない。

『彼は愛情細かく』彼の友(awliyā)に対して。

『精通し給う御方』 彼らのことを。

おまえたちには、おまえたちの主から証拠が訪れた。それゆえ、見た者は自分のためにそうしたのであり、目を閉ざした者は自分に仇をなしたのである。だが、わたしはおまえたちの看視人ではない。(6:104)

ムハンマドよ、言え。

『証拠が訪れた』 明証が。

『見た者は』 それを。そして、信じた者は。

『自分のためにそうしたのであり』 見たことは。なぜなら、その見たことの報奨は彼のものだからである。

『目を閉ざした者は』 それから。そして、迷った者は。

『自分に仇をなしたのである』 迷妄の結果は彼が負う。

『わたしはおまえたちの看視人ではない』 おまえたちの行いの監視者ではなく、警告者にすぎない。

こうしてわれらは印を提示する。彼らは、『おまえは習ったのである』と言うが、それはわれらが、知る民にそれを解明するためである。(6:105)

『こうして』 述べられたことをわれらが明示したように。

『われらは印を提示する』 明示する。彼らが反省するようにと。

『彼らは・・・と言うが』 不信仰者たちは。結果的に(『・・・と言う(la-yaqūlū)』の「la」は理由の「ラーム」、あるいは結果の「ラーム」)。

『おまえは習ったのである』おまえは啓典の民に習ったのである。『おまえは習ったのである(dārasta)』は、「darasta」とする読誦法もある(意味は同義)。つまり、過去の者たちが書き、おまえはそこからそれ(クルアーン)を持って来たのだ(監訳者注:ハフス&アースィム版では、「darasta」とする読誦法を採る)。

おまえの主からおまえに啓示されたものに従え。彼のほかに神はないのである。そして多神教徒から背を向けよ。(6:106)

『おまえの主からおまえに啓示されたものに従え』 クルアーンに。

『彼のほかに神はないのである』は挿入句である。

もしアッラーが御望みであったら、彼らは多神を崇拝することはなかった。また、われらはおまえを彼らに対する看視者とはしなかった。おまえは彼らに対する管理者ではない。(6:107)

『おまえを彼らに対する看視者とはしなかった』 監視人とは。そして、彼らの行いにおまえが報いを与えるようにはしなかった。

『おまえは彼らに対する管理者ではない』 彼らに信仰を強いることはない。これは戦闘の命令以前のものである。

また、アッラーをさしおいて彼らが祈るものたちを謗ってはならない。知識もないまま、敵意からアッラーを謗らせないために。こうしてわれらはそれぞれの民に彼らの行いを美しく飾った。それから彼らの主に彼らの帰り所はあり、彼は、彼らがなしたことを彼らに告げ給う。(6:108)

『アッラーをさしおいて彼らが祈るものたちを』 祈る対象となるものたちを。つまり偶像を。

イブン・アッバースによると、『まことに、おまえたちと、おまえたちがアッラーのほかに仕えるものは火獄の燃料である』(第21章[預言者]98節)が下されると、多神教徒たちは、「ムハンマドよ、われらの神々を中傷することをやめよ。さもなければわれらはおまえの主を侮辱するであろう」と言った。そこでアッラーは、多神教徒が知識のないままアッラーを謗ることのないよう、ムスリムに多神教徒の偶像を謗ることを禁じ給うた。

イブン・アル=アンバーリー(Abū Bakr Muhammad bn al-Qāsim, 328/940年没)によると、この節は、アッラーが、預言者がマッカにおられた時に下し給うたもので、彼を教友によって強化し給うとこれを破棄し給うた。
一説によれば、偶像を謗ることは、服従行為であり、許された行為であるが、アッラーを謗り、預言者を謗るというさらなる悪を招くがゆえに禁止されたにすぎない。

『知識もないまま』 アッラーのことを知らずに。

『敵意からアッラーを謗らせないために』 敵意と不正から。

『こうして』 彼らに、彼らのしていることを美しく飾ったように。

『彼らの行いを美しく飾った』 良いことも悪いことも。それをなすように。

『彼らの主に彼らの帰り所はあり』 来世において。

『彼は、彼らがなしたことを彼らに告げ給う』 そしてその報いを与え給う。

彼らは、熱心な宣誓をアッラーに誓った。彼らに印が訪れたならそれを信じるであろう、と。言え。印はアッラーの御許にのみある。なにがおまえたちにわからせるか。それが来ても彼らは信じないのである。(6:109)

『彼らは・・・アッラーに誓った』 マッカの多神教徒は。

『熱心な宣誓を』 それ(宣誓)における彼らの熱意の限りをもって。

『彼らに印が訪れたなら』 彼らが要求していたような。

『言え』 彼らに。

『印はアッラーの御許にのみある』 彼は御望みのままにそれを下し給う。そして、私は警告者にすぎない。

『なにがおまえたちにわからせるか』 その印がもたらされた時に、なにがおまえたちにおまえたちの信仰を教えるのか。おまえたちにはわからない。

『それが来ても彼らは信じないのである』 われの知識において先行するものゆえに。

不信仰者に向かって二人称の接頭辞「ターゥ(t)」で、『lā tu minūna(おまえたちは信じないのである)』と読む読誦法もある。

『・・・のである(anna-hā)』 の「anna」を「おそらく(laalla)・・・である」の意味とする読み方もある(つまり、「おそらくそれが来ても彼らは信じないのである」という意味である)。あるいは、前の文章にかかった構文である(「わからせる」の第二目的語。その場合、「lā」は虚字の「ラーム(l)」で、「彼らが信じると、なにがおまえたちにわからせるか」という意味である)。

彼らがそれを最初に信じなかった時のように、われらは彼らの心と目を反転させ、彼らを無法の中にさ迷うままに放置するのである。(6:110)

『彼らがそれを』 下された印を。

『われらは彼らの心・・・を反転させ』 彼らの心を真理から逸らさせ、彼らは理解することができない。

『目を』 それ(真実)から(反転させ)。それゆえ彼らはそれを見ることができず、信じない。

『無法の中に』 誤りの中に。

『さ迷うままに』 迷って、右往左往するままに。

『放置するのである』 見捨てるのである。

『われらは・・・反転させ』『・・・放置する』は前節『なにがおまえたちにわからせるか』(第109節)につながるもので、「印が来た時に、彼らが信じず、われらが・・・反転させ、・・・放置するとなにがおまえたちにわからせるか」という意味であるとする解釈もある。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2006年 アラブ イスラーム学院