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【第4章 女】
(4:38〜4:51)
 

また、人々への見栄に自分たちの財産を費やし、アッラーを信じることもなければ、最後の日を信じることもない者たち。シャイターンを相棒とした者は、なんと悪い相棒であることよ。(4:38)

『また・・・者たち』 前節の『・・・者たち』の同格接続。

『人々への見栄に自分たちの財産を費やし』 彼らに対してこれみよがしに。

『アッラーを信じることもなければ、最後の日を信じることもない』 偽信者やマッカの多神教徒など。

『シャイターンを相棒とした者は』 仲間とし、彼(シャイターン)の命令に従って行動する。彼ら(偽信者とマッカの多神教徒)のように。

『なんと悪い』 なんと酷い。

『相棒であることよ』 それは。

シャイターンを相棒とした者を、アッラーは来世の獄火においてもシャイターンを相棒とし、不信仰者一人一人にそれぞれ一人のシャイターンを同じ鎖につなぎ給うとも言われる。

かりに彼らがアッラーと最後の日を信じ、アッラーが彼らに糧として与え給うたものから施しをしたとして、彼らにとってなんの負担になろう。アッラーは彼らについてよく知り給う御方であらせられた。(4:39)

『かりに彼らがアッラーと最後の日を信じ、アッラーが彼らに糧として与え給うたものから施しをしたとして、彼らにとってなんの負担になろう』 つまり、そのことで彼らになんの害があろうか。非難の意味の疑問文である。つまり、それには害はない。害は彼らの現状の方にこそある。「law(かりに・・・したとして)」は動名詞の「law」(つまり、「・・・することが彼らにとってなんの負担となろう」)。

『アッラーは彼らについてよく知り給う御方であらせられた』 そして、彼らのなしたことで彼らに報い給う。

まことにアッラーは微塵の重さも不正はなし給わない。もしそれが一つの善行であれば、それを倍加し、彼の御許から大きな報酬を与え給う。(4:40)

『微塵の』 最小の蟻ほどの。

『重さも』 重量も。

『不正はなし給わない』 誰にも。善行からそれ(微塵のもの)を減らしたり、悪行にそれを加えることによって。

『もしそれが』 微塵が。

『一つの善行であれば』 信仰者からの。『一つの善行であれば( hasanatan)』(対格)は、別の読誦法では、「hasanatun」と主格で読む。その場合、「あれば(taku)」は(繋辞ではなく)存在の自動詞である(「もし1つの善行があれば」)。

『それを倍加し』 10倍から700倍以上に倍加し。動詞派生形3形の「yudā‘if- hā(それを倍加し)」は動詞派生形第2形で促音で「yuda‘‘if-hā」と読む読誦法もある。

『彼の御許から』 彼のところから、倍加されて。

『大きな報酬を与え給う』 それを推し量ることは誰にもできない。

われらがそれぞれの共同体から証人を連れ出し、これらの者に対しておまえを証人として連れ出す時はどんなであろうか。(4:41)

『われらがそれぞれの共同体から証人を連れ出し』 それ(共同体)に対してその行いの証言をする(証人を)。預言者のことである。

『おまえを証人として連れ出す時は』 ムハンマドよ。

『どんなであろうか』 不信仰者の状態は。

その日、信仰を拒絶し、使徒に背いた者たちは、大地が彼らと共に平らにされればと願うが、アッラーには何事も隠すことはできない。(4:42)

『その日』 来るべき日。

『信仰を拒絶し、使徒に背いた者たちは、大地が彼らと共に』 恐怖のあまり、自分たちもそれ(大地)のように土埃となって。他の節(第78章[消息]40節)に、『不信仰者は「土埃であったらよかったものを」と言う』とある通りである。

『平らにされ・・・』 受動態(「tusawwā」)。能動態とする読誦法(「tasawwā」)もあるが、その場合には、元の(「tatasawwā」の)2つの「ターゥ(t)」の1つが省略される読誦(tasawwa)と、それが「スィーン(s)」に吸収・同化される読誦(tassawwa)がある。

『・・・ればと』 (「law(・・・ればと)」は)「an(・・・ることを)」の意味。

『アッラーには何事も隠すことはできない』 彼らのなしたことは。別の時には、彼らはそれを隠し、「われらの主アッラーに誓って、われらは多神教徒ではなかった」と言う。
だが、体の器官、四肢、時間、場所が彼らに反する証言をし、彼らは隠すことができないのである。

信仰する者たちよ、おまえたちが酔っている時には、言っていることがわかるようになるまで礼拝に近づいてはならない。また、大汚にある時も、道を通行する者を除き、全身沐浴をするまではいけない。もしおまえたちが病気か、旅行中か、あるいは、おまえたちの誰かが厠から出るか、妻に触れたのに水が見つからなかった時には、良い土をタヤンムムし、顔と両手を拭け。まことにアッラーはよく免じ、よく赦す御方であらせられた。(4:43)

『おまえたちが酔っている時には』 飲み物によって。この節の啓示の理由は、酔った状態で行った金曜礼拝である。

この節の下された理由は、アリー・ブン・アブー・ターリブが伝えている。「われらにアブー・アウフが食事を作り、酒を注いだ。これは酒が禁止される以前のことである。われらは酒に酔い、夕方の礼拝の時間となった。人々が私を前に押し出したので、私はクルアーンを読んだ。『言え、不信仰者たちよ、われは、おまえたちが仕えるものに仕え、われらはおまえたちが仕えるものに仕える』(本来は『言え、不信仰者たちよ、われは、おまえたちが仕えるものに仕えない・・・』(第109章[不信仰者]1−2節))と私は混同した。すると、『おまえたちが酔っている時には・・・礼拝に近づくな』が下された」(アル=ティルミズィーの伝える伝承)。
「酔い(sakr)」とは、障害のことで、酒を飲んだ者は自分と理性の間を隔てられる。

『言っていることがわかるようになるまで』 酔いが醒めて。

『礼拝に近づいてはならない』 つまり、礼拝をしてはならない。

『大汚にある時も』 (性器の)挿入、または射精によって。状態の副詞的修飾句。(「大汚(junub)」は)単数にも、それ以外にも用いられる。

『道を』 道路を。

『通行する者』 横切る者。つまり、旅行者。

『全身沐浴をするまではいけない』 そうしたら(全身沐浴が済んだら)、おまえたちには礼拝することが許される。旅行者の例外は、彼には次に述べられるような別の規定があるからである。近づくことが禁止されたのは、礼拝の場所、つまりモスクのことで、ただし、(そこに)留まらない者がそこを通過することは除外される。

『もしおまえたちが病気か』 水が障りとなる病気か。

『旅行中か』 旅行者で、大汚(全身沐浴が必要な儀礼的汚れ)、あるいは小汚(ウドゥー、即ち儀礼的手足頭部洗浄が必要な儀礼的汚れ)にあるか。

『厠』 用を足すために備えられた場所である。

「厠(gā’it)」とは、低地のことで、排便をするために人目のないところに行くことから、排便することを間接的に表現したものである。

『妻に触れたのに』 『触れた(lāmastum)』は、アリフを伸ばさない読誦法(「lamastum」)もある。いずれも「触れる」という意味で、イブン・ウマルによれば、これは女に手で触れることであり、アル=シャーフィイーはこれに従う。イブン・アッバースによれば、これは性交を意味する。

『水が見つからなかった時には』 礼拝のために身を清めるための(水が)。よく探し求めた後で。これは病人の除外にかかる。

『良い土を』 清い土埃を。

『タヤンムムし』 (礼拝の)時間に入る度に求め。そして、それ(土)を2度打ち叩き(監訳者注:「タヤンムム(水に代わる砂埃による儀礼的洗浄)」の原義は、「求める」)。

『顔と両手を拭け』 肘を含め。「拭く」は直接目的語を取ることも、(ここでのように)前置詞を取ることもある。

『まことにアッラーはよく免じ、よく赦す御方であらせられた』 アッラーはよく免じ、よく赦す御方ゆえに、おまえたちに物事を易しいものとし、おまえたちに許可を与え給うた。

啓典の一部を授けられた者たちが迷誤を買い取り、おまえたちが道に迷うことを望むのをおまえは見なかったか。(4:44)

『啓典の一部を』 分け前を。

『授けられた者たちが』 ユダヤ教徒のことである。

『迷誤を買い取り』 導きに代えて。

『おまえたちが道に迷うことを望むのをおまえは見なかったか』 おまえたちが真理の道を誤り、彼らと同類となることを。

イブン・アッバースによると、これはユダヤ教徒の2人の学者について下された。この2人は、偽信者の頭であるアブドッラー・ブン・ウバィイとその徒党の許に行き、彼らをイスラームから逸らせた。あるいは、リファーア・ブン・ザイドとマーリク・ブン・ダフシャムの2人について下されたとも言われる。この2人はアッラーの御使いの許に行き、口を曲げ、彼を非難した。
ユダヤ教徒の学者はムハンマドの預言者性を否定した。あるいはまた、賄賂を受け取って、律法の書を改竄したとも言われる。また、自分たちが道を過つだけでなく、おまえたち信仰者まで迷うことを願った。彼らは自分たちが真理から道を外れたことを知っているため、信仰者ばかりが真理に従うことを嫌い、自分たち同様迷うことを望んだのである。『彼らは、彼らが信仰を拒絶したようにおまえたちも否定し、同類となることを望んだ』(第4章[女]89節)とある通りである。

アッラーはおまえたちの敵たちについて最もよく知り給う御方。庇護者としてはアッラーで十分であらせられ、援助者としてはアッラーで十分であらせられた。(4:45)

『アッラーはおまえたちの敵たちについて最もよく知り給う御方』 おまえたちのうち。それで、おまえたちが彼らを避けることができるよう、彼らのことをおまえたちに告げ給う。

『庇護者としてはアッラーで十分であらせられ』 彼らからおまえたちを守る守護者として。

『援助者としてはアッラーで十分であらせられた』 彼らの策謀からおまえたちを防衛し給う御方として。

ユダヤ教徒の中には、言葉をその場所から外し、「われらは聞き、そして背いた」、「聞いてくれ、聞かせはしないが」、「われらを看てくれ」と舌をゆがめ、宗教を中傷して言う者がある。もし彼らが、「われらは聞き、そして従った」、「聞いてくれ」、そして「われらを見てくれ」と言えば、それは彼らにとってより良く、より正しい。だが、アッラーは彼らの不信仰ゆえに彼らを呪い給い、それでわずかな者しか信じない。(4:46)

『ユダヤ教徒の中には』 (以下のような)民がいる。

『言葉を』 アッラーから下された律法の中のムハンマドの記述を。

『その場所から』 彼(アッラー)が置き給うた(場所から)。

『外し』 変更し。

『われらは聞き』 おまえの言うことを。

『そして背いた』 おまえの命令を。

『聞いてくれ、聞かせはしないが』 状態の副詞的修飾句。祈願の意味を持つ。つまり、おまえは聞かない。

彼らはこの言葉を特に預言者と話す時に言った。
『聞いてくれ、聞かせはしないが』には2つの意味がある。1つは悪い意味で、聞け、但しおまえは耳が聞こえないか死んでいるかでそもそも言葉を聞くことが出来ない状態にある、つまり、おまえは聞いて分かることなく、呪詛されている、という意味、あるいはお前はお前の満足するようなことを聞かされることはない、という意味である。
もう1つは、「我々から、忌まわしいことを聞かされることはないので、聞いて下さい」という良い意味である。彼らは預言者を笑い者にするため、後者の意味を込めているそぶりをしながら、前者の意味でこの言葉を言ったのである。

『「われらを看てくれ」と』 彼に言う。「われらを看てくれ(rā’(‘?)i-nā)」という言葉は彼らの言語ではののしりの言葉で、信仰者たちにはその表現を使うことは禁じられていた。

『信仰する者たちよ、「われらを看てくれ」と言ってはならない』(第2章[雌牛]104節)この言葉には2つの意味があり、1つは、「見てください(待ってください)」という良い意味であるが、もう1つは、「ru‘ ūnah(愚かである)」というののしりの言葉、またはそれに似たヘブライ語またはシリア語のののしり言葉である。彼らは預言者に敬意を表するふりをしながら、侮辱の言葉を口にした。彼らは偽善者なのであった。

『舌をゆがめ』 (音を)歪め。

『宗教を』 イスラームを。

『中傷して言う者がある』 誹謗して。預言者に対して。彼が彼らになにかを命じた時に。

『もし彼らが、「われらは聞き、そして従った」』 「背いた」の代わりに。

『聞いてくれ』 とだけ。

『そして、「われらを見てくれ」と言えば』 「rā‘( ’?)i-nā」の代わりに、「unzur-nā(われらの方を見てくれ)」と言えば。

『それは彼らにとってより良く』 彼らが言ったことよりも。

『より正しい』 それよりも公正である。

『彼らを呪い給い』 彼らを彼の慈悲から遠ざけ給い。

『それでわずかな者しか信じない』 その中には、アブドッラー・ブン・サラームと彼の仲間などがいる。

彼らは真実を歪め、それを虚偽となし、仲間に対して、「われらは彼を中傷しているだけだ。だが彼はそれに気づかない。もし、彼が預言者なら、それに気づくだろうが」と言っていた。そこでアッラーは彼らの悪意と心にある敵意と憎悪を預言者に暴露し給うたのである。

啓典を授けられた者たちよ、おまえたちが持つものの確証としてわれらが下したものを信じよ。われらが顔をつぶし、それを後ろに回すか、われらが安息日の者たちを呪ったように彼らを呪う前に。アッラーの命令は成し遂げられた。(4:47)

『おまえたちが持つものの』 律法の書の。

『確証としてわれらが下したものを』 クルアーンで。

『われらが顔をつぶし』 そこ(顔)にある目、鼻、眉をわれらが消し。

イブン・アッバースによると、顔をラクダの足の裏のように、あるいは家畜のひずめのようにすることである。カターダ、アル=ダッハークによれば、これは眼をつぶすことである。猿の顔のように毛を生やすことだとも言われる。

『それを後ろに回すか』 それをうなじのように一枚板にするか。

『安息日の者たちを』 彼らのある者たちを。

『呪ったように』 変えたように。

『彼らを呪う前に』 彼らを猿に変える前に。

『アッラーの命令は成し遂げられた』 彼の定めは。
アブドッラー・ブン・サラームはこの節が啓示されるとイスラームを受け入れた。

彼は、シリア地方から到着するや、家族のもとに帰る前にアッラーの御使いの許を訪れた。彼はかつてこの節を耳にしたことがあった。彼は言った、「アッラーの御使いよ、顔をうなじのようにされる前にあなたの許にたどりつけるとは思わなかった」。
別の伝承によれば、彼は手で顔を覆いながら預言者の許にやってきてイスラームを受け入れ、上記の言葉を述べた。

このことは、(信仰する者がいなければ、との)条件つきの警告で、一部の者がイスラームを受け入れたことによって起こらずにすんだとも、復活の時の前に抹消させられ、変身させられる、とも言われる。

まことにアッラーは彼に共同者が並べ立てられることは赦し給わないが、それ以外のことは御望みの者には赦し給う。アッラーに共同者を置く者は重大な罪を捏造したのである。(4:48)

『彼に共同者が並べ立てられることは』 共同者の並置は。

『それ以外の・・・』 それを除いた。

『・・・ことは』 罪は。

『御望みの者には』 その者を赦すことを。

『赦し給う』 彼に懲罰を与えることなく、楽園に入れることによって。信仰者の中でも御望みの者には、罪ゆえに懲罰を与え給い、その後、楽園に入れ給う。

『重大な』 大きな。

『罪を捏造したのである』 罪科を。

この節は、信仰と共に命令に従う義務を強調し、それなしには赦しはないことを明らかにしているのである。ユダヤ教徒は啓典を改竄しておきながら、御許しを期待していた。シルク(多神教)とは不信仰一般を意味しているが、一義的なユダヤ教徒の不信仰を内包している。クルアーンは啓典の民が全てシルクを犯していることを明言し、不信仰の者たちが獄火に永遠に留まることを明らかにしているのである。

おまえは自分を清浄とする者たちを見なかったか。いや、アッラーが御望みの者を清め、彼らは薄皮ほども不当に扱われることはない。(4:49)

『おまえは自分を清浄とする者たちを見なかったか』 ユダヤ教徒のことである。彼らは、自分たちがアッラーの息子であり、愛される者であると言っていたが、そうしたことは自賛によって決まるものではない。

『アッラーが御望みの者を』 信仰によって。

『清め』 浄化し。

『薄皮ほども』 ナツメヤシの種の薄皮ほども。

「ナツメヤシの種の薄皮(fatīl)」とは、ナツメヤシの種の割れ目に沿ってある繊維である。指を縒り合わせた(fatala)時に出る汚れのことであるとも言われる。クルアーンでは、わずかなものを指すのに、ファティール、キトゥミール(ナツメヤシの種を被う薄い膜)、ナキール(ナツメヤシの種にある斑点)の3語が用いられている。

『不当に扱われることはない』 彼らの行いを減らされることはない。

見よ、いかに彼らがアッラーについて嘘を捏造するかを。それだけで十分に明白な罪である。(4:50)

『見よ』 驚きをもって。

『いかに彼らがアッラーについて嘘を捏造するかを』 それ(上記の彼らの言葉)によって。

『十分に明白な』 はっきりとした。

おまえは、啓典の一部を授けられた者たちがジブトとターグートを信じ、信仰を拒絶する者たちに向かって、「これらの者は信仰する者たちよりもより導かれている」と言うのを見なかったか。(4:51)

この節は、カアブ・ブン・アル=アシュラフなどユダヤ教徒の学者について啓示された。彼らはマッカに赴き、バドルの戦いの戦死者を目にし、多神教徒たちに彼らへの復讐と預言者との戦いを煽動した。

ユダヤ教徒 70人の騎士がバドルの戦いの後、預言者に対抗してクライシュ族と同盟を結び、彼らが預言者との間で結んだ誓約を破棄するためにマッカに赴いた。カアブはアブー・スフヤーンの家に泊まり、手厚いもてなしを受けた。残りのユダヤ教徒たちはクライシュ族の家々に泊まった。
アブー・スフヤーンは彼らに言った、「あなたがたは啓典の民で、ムハンマドも啓典を持っている。これがあなたがたの策略でないと信じられない。もし、われらがあなたがたと出兵することをあなたがたが望むのであれば、これらの偶像に跪拝してみせよ」。そこで彼らは言われたことをした。『ジブトとターグートを信じ』とはそのことである。カアブはマッカの住民に、「あなたがたのうちから30人の男を出せば、われらからも30人を出そう。われらはわれらの肝臓をカアバに擦りつけ、この館の主に誓って、ムハンマドを打つために戦う」と言うと、そのようにした。
そこでアブー・スフヤーンはカアブに言った、「あなたは書を読み、知識がある。われらは文盲で知らない。さて、われらとムハンマドと、より導かれているのはどちらか」。すると、カアブは言った、「あなたがたの宗教を私に示してみせよ」。アブー・スフヤーンは言った、「われらは館の管理者であり、巡礼をする者のために犠牲を捧げ、水を与え、客をもてなし、捕虜を解放し、血縁を結び、主の館を巡礼し、その周りを回る。われらは聖なる町の住民であり、ムハンマドは祖先の宗教から逸脱し、血縁を断ち、聖なる町から離れた。われらの宗教は古く、ムハンマドの宗教は新しい」。それでカアブは言った、「いや、あなたがたの方がムハンマドよりもより導かれている」。
それに対し、アッラーはこの節を啓示し給うた。

『ジブトとターグートを』 クライシュ族の偶像である。

『ジブトとターグート』とは、クライシュ族の2体の偶像で、ユダヤ教徒たちは彼らを喜ばせるためにそれに跪拝した。「ジブト」とは偶像の名で、「ターグート」とはそれぞれの偶像に宿り、それを通じて現れ、人々に語りかけ惑わす悪魔のことであるとも、「ジブト」とは占い師で、「ターグート」とは魔法使いであるとも言われる。

『信仰を拒絶する者たちに向かって』 アブー・スフヤーンと彼の仲間に。彼らが、彼ら(ユダヤ教徒)に、「われらは一層正しく導かれている。われらは館(カアバ)の管理者であり、巡礼者に水を与え、客をもてなし、捕虜を解放し、われらは(その他さまざまなことを)なす(「なす(nafalu)」は「naqilu(血の代金を払って身請けする)」とも読める。 cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.2, p.224)。一方、ムハンマドは彼の祖先の宗教に背き、血縁を断ち、聖なる町を離れた」と言ったのに対して(次の言葉が言われた)。

『これらの者は』 つまり、おまえたちは。

『より導かれている』 真っすぐな道を行っている。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2006年 アラブ イスラーム学院