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【第2章 雌牛】
(2:220〜2:230)
 

現世と来世について。また、彼らは孤児についておまえに問う。言ってやれ、「彼らのために善処することは良いことである。もしおまえたちが彼らと混ざり合うなら、それならおまえたちの兄弟である」。アッラーは悪用者と善用者とを見分け給う。もし彼が御望みならば、おまえたちに困難を課し給うたであろう。まことにアッラーは威力比類なく英明なる御方。(2:220)

『現世と来世について』現世と来世の問題について。それらについてはおまえたちにとって最善を取れ。

現世については、それを改善し、浪費をせず、吝嗇になってはならない。来世については、善行によってそれを良くせよ。ただし、過度に行って倦み疲れてはいけないし、怠って来世を忘れてしまってもいけない。来世のことにも現世のことにも中庸が求められる(cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.101)。

『孤児について』そして、彼ら(孤児)の問題で彼らが直面する困難について。というのも、彼ら(孤児たち)と食事を一緒にすれば罪を犯すことになり、自分たちの財産を彼らの財産から分け、彼らだけの食事を作れば、それが負担となったからであった。

『孤児の財産を不正に食べる者たちは…』(第4章[女]10節)が下されると、人々は、孤児と混ざり合うことを敬遠し、孤児の財産に注意を払うあまり、孤児には彼だけの食事を作り、彼らが食べ残したものは腐るままにし、食べようとしなかった。

『彼らのために善処すること』彼らの財産を。利殖によって。

『良いことである』おまえたちが(孤児の財産を自分たちの財産と)一緒に運用することは、それを避けることより良い。

彼らの状況と彼らの財産のためになることをすることは、間違いを恐れて彼らを避けることよりも良い。手間賃や見返りを求めずに孤児の財産管理をすることの方がおまえたちにとって良く、報償も大きい。

アッラーは仰せられた、『孤児の財産にはより良いやり方によってしか近づいてはならない』(第6章[家畜]152節)。

『もしおまえたちが彼らと混ざり合うなら』おまえたちの家計と彼らの家計を一緒にするなら。

『それならおまえたちの兄弟である』つまり、彼らは宗教においておまえたちの兄弟なので、兄弟の常として兄弟とは混ざり合う、つまり、おまえたちにはその権利がある、ということ。

『悪用者』(自分の財産と)一緒にすることによる孤児たちの財産の悪用者。

『善用者と見分け給う』その(孤児の財産の)善用者と見分け給い、その(悪用者、善用者)双方に報い給う。

『おまえたちに困難を課し給うた』一緒にすることを禁じておまえたちを締め上げて。

『威力比類なく』その問題を掌握し給い。

『英明なる御方』その行為において。

多神教徒の女とは彼女らが信仰するまで結婚してはならない。信仰ある女奴隷の方が多神教の女よりも良い、たとえ彼女をおまえたちが気に入ったとしても。また、多神教の男とは彼らが信仰するまで結婚させてはならない。信仰ある奴隷の方が多神教の男よりも良い、たとえ彼をおまえたちが気に入ったとしても。それらの者は獄火に招く。アッラーは楽園と赦しに彼の御許し次第で招き給う。そして、彼は人々に彼の印を明かし給う。きっと彼らは思い出すであろうと。(2:221)

『多神教徒の女とは』つまり、不信仰者の女とは。

『結婚してはならない』ムスリムたちよ、婚姻してはならない。
預言者はムスリムたちを密かにマッカから連れ出すため、マルサド・ブン・アブー・マルサド・アル=ガナウィーを遣わされた。マルサドはジャーヒリーヤ(無明)の時代にアナークという名の女を欲していた。彼女が彼の許を訪れ、彼に言った、「二人きりにならないか」。それに対しマルサドは、「気をつけよ。私とあなたの間にはイスラームがある」、「私と結婚することは許されているのか」、「ああ、しかし、預言者の所に戻って、指示を受けよう」と言った。それに関してこの節は下された。

『多神教の女よりも良い』多神教の自由人の女よりも良い。というのも、女奴隷と結婚する者を貶め、多神教の自由人の女との結婚を勧めた事件がこの啓示の原因であったからである。

この節は、奴隷との結婚を恥じ、多神教の自由人との結婚を望むことに対して下された。この節は奴隷女と結婚したフザイファ・ブン・アル=ヤマーン、またはアブドッラー・ブン・ラッワーフに関して下された。

フザイファにはフナサーゥ・ワリーダという奴隷女がいたが、彼は、「フナサーゥよ、私は長老たちの面前でおまえの黒さと醜さについて語った」と言うと、彼女を解放し、彼女と結婚した。

アブドッラー・ブン・ラッワーフには黒人の奴隷女がいた。ある日彼は怒って彼女を平手打ちにした。そこで彼は預言者の許に行き、それについて告げたところ、預言者は彼に、「アブドッラーよ、彼女はどんなか」と尋ねられた。そこで彼は、「彼女はアッラーのほかに神はなく、あなたはアッラーの使徒であると証言し、ラマダーンの斎戒をし、ウドゥー(儀礼的洗浄)をきちんとし、礼拝をしています」と言った。「彼女は信者なのだね」と預言者が言われると、アブドッラーは、「あなたを真実と共に遣わした御方に誓って、私は彼女を解放し、結婚します」と言い、そのようにした。すると人々は、「おまえは奴隷と結婚するのか」と彼を悪く言い、多神教の自由人の女を彼に連れてきた。そこでこの節は下されたと言われる。

『おまえたちが気に入ったとしても』彼女の美しさ、財産のために。これ(不信仰の女との結婚禁止規定)は『そして貞淑な女と、啓典を授かった者たちの…』(第5章[食卓]5節)の節により、啓典の民の女以外(の不信仰の女)に限られる。

『また、多神教の男とは』つまり、不信仰の男を信仰者の女に。

『結婚させてはならない』婚姻を結ばせてはならない。 

『彼をおまえたちが気に入ったとしても』彼の美しさと財産のために。

『それらの者は』多神教徒は。

『獄火に招く』それを帰結する行いへと、彼らが誘うことで。それゆえ、彼らとの結婚は適当でない。

『アッラーは楽園と赦しに』その二つを必然的にもたらす行為に。

『彼の御許し次第で』彼の御意志によって。それゆえ、彼の徒党たち(ムスリムたち)と結婚させることで、彼に答えねばならない。

『招き給う』彼の使徒たちの舌を通して。

『思い出すであろうと』教訓を得るであろうと。

そうすれば彼らも禁じられた行為の醜さと命じられた行為の美しさに気づくであろう。


彼らは月経についておまえに問う。言ってやれ、「それは障りである。それゆえ、月経には妻たちから遠ざかり、彼女らが清まるまで近づいてはならない」。彼女らが身を清めたら、アッラーが命じ給うところから彼女らに赴け。まことにアッラーは悔い改める者を愛し、身を清める者を愛し給う。(2:222)

『月経について』生理について、その状態にある妻に対してどうすべきかについて。あるいはその場所について。

「月経(al-mahīd)」とは、血が流れることである。

『それは障りである』それは穢れである、あるいは、その場所は穢れである。

「障り」とは、人が汚いと思い、それに近づく者に嫌悪感を与え気分を害させるもの一切を指す。

『月経には』月経の時には。あるいは月経の場所においては。

『妻たちから遠ざかり』彼女らとの交わりを遠ざけ。

この節が下された時、遊牧民の中にはその意味を字義通りに取り、妻を家から外に出した者たちがいた。彼らは、「アッラーの御使いよ、厳しい寒さで、着ている服は少ない。もし、われらが妻たちを優先すれば、家の者たちは破滅し、かといって、われらが家族を取れば、彼女が破滅する」と言った。すると、アッラーの御使いは言われた、「あなたがたが命じられたのは、彼女らとの性交を遠ざけることだけで、外国人がするように家から彼女らを出すことではない」。

『清まるまで』第1語根の「ターゥ(t)」を原形の子音で読む「yathurna(月経が終わり清まる)」読誦法と、派生形第5形の「ターゥ(t)」が第1語根の「ターゥ(t)」に吸収同化されて促音で、かつ同様に派生形第5形ゆえに第2語根の「ハーゥ(h)」も促音で「yattahharna」と読む読誦法がある。後者は、つまり「月経が終った後で沐浴する」の意である。

『アッラーが命じ給うところから』月経を避けて、つまりそれは前部(女陰)であるので、それを越えて他の場所に行ってはならない。

つまり後部(肛門)はいけない。

『彼女らに赴け』性交を行え。

『悔い改める者を』罪を悔悟する者を。  

『身を清める者を』穢れから身を清める者を。

月経中の妻との性交、膣以外の場所での性交などの汚れた行為から身を清めること、あるいはまた、大汚(性交など)、小汚(排泄など)から水で清めることである。

『愛し給う』報い、恩恵を施し給う。

おまえたちの妻はおまえたちの畑である。それゆえ、いかようにもおまえたちの望むままに畑に赴け。そしておまえたち自身のために前もってなせ。アッラーを畏れ身を守り、彼にまみえることを知れ。そして、信仰者に吉報を伝えよ。(2:223)

『おまえたちの畑である』おまえたちの子種を植える場である。

『いかようにも』どのようにでも。

『望むままに』立ってでも、座ってでも、寝てでも、前からでも、後ろからでも。ユダヤ教徒が、「後ろから妻の膣に赴いた者には斜視の子が生まれる」と言ったのに対して啓示されたものである。

『畑に赴け』畑の場所に赴け。それは女陰のこと。

『前もってなせ』善行を。性交に際してアッラーの御名を唱える(「アッラーの御名において(ビスミッラー)」と言う)など。

預言者は言われた、「性交の際にビスミッラーと言った者に子供ができたら、その子供の呼吸の数と審判の日にいたるまでのその子孫の数だけの善行が彼には与えられる」。

『アッラーを畏れ身を守り』アッラーの命令と禁止において。

『彼にまみえることを知れ』死後の甦りによって。そして彼がおまえの行いに報い給うことを知れ。

『信仰者に吉報を伝えよ』畏れ身を守る者に楽園の吉報を伝えよ。

アッラーを、善をなし、畏れ身を守り、人々の間の執り成しをすることの、おまえたちの誓いのための障害物にしてはならない。善をなし、恐れ、人々の間の執り成しをせよ。アッラーはよく聞き、よく知り給う御方。(2:224)

この節はアブドッラー・ブン・ラウワーハに対して啓示された。彼と義理の息子のバシール・ブン・アル=ヌウマーンの間に問題が起き、アブドッラーは、「彼を訪れず、彼とは口を利かず、彼と彼の論敵との関係を修復しない」との誓いを立て、それについて何か言われても、「私はそうしないとアッラーに誓ってしまったので、自分の誓約を守らないことは私には許されない」と言っていた。そこでアッラーはこの節を下し給うた。

『アッラーを』アッラーにかけての誓約を。

『善をなし、畏れ身を守り』そうした誓約(「アッラーに誓って、善をなし、畏れ身を守り、人々の間の執り成しをしない」)はマクルーフ(自粛すべき)であり、この場合、誓約を破ることがスンナ(慣行)であり、善行などでその破約を償う。それが服従行為である。

『…することの』…しないことの。

『おまえたちの誓いのための…にしてはならない』アッラーにかけての誓いを乱発することによって、(アッラーを)誓約の標的にしてはならない。

これ(アル=ジャラーラインのタフスィール)はこの節の二つの解釈の折衷である。第一の「アッラーにかけての誓いを乱発する」との解釈によると、この節は、たとえ真実と善行に関するものであったとしても、自分がなそうとする善行の全てについて「それをすると誓う」などの誓いは禁じられる。これは、大小多少を問わずあらゆる行為に誓いを立てて至高なる御名を濫用することになるためマクルーフ(自粛すべき)である。

第二の解釈によると、この節は、たとえ一回でも、「午前の礼拝をしない」「論敵同士の仲裁をしない」などと、敬虔と善を含む行為をしないと誓って善行を妨げることになる誓約の禁止となる。アル=ハーズィン(のタフスィール)にはこの二つの解釈が明示されているが、注釈者(アル=ジャラール・アル=スユーティー)はこの二つを折衷しているのである。

この第一の解釈では、「…することの」が否定詞の「lā」が省略されていると考えてそれを補い「…しないことの」と解釈するアル=ジャラーラインのタフスィールの「lā」の付加は不必要である(cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.104)。

『障害物に』妨げる口実に。

「障害物(‘urdah)」とは「獲得物(qubdah)」「部屋(ghurfah)」と同じく受動分詞の意味で、「何かを妨害するために置かれ、その遮蔽物となったもの」を指して言われる。それゆえアル=ジャラーラインのタフスィールは、「標的(nasban)」、つまり「立てられたもの」、つまり、アッラーを弓の射手たちのために立てられた的のようなものにしてはならない、と注釈しているのである。

『…してはならない』この(文の)意味は、上述の善行などの行いを、たとえそれに反する誓約を立てたとしても止めてはならず、そうせずに、それらを行った上で、破約の償い(カッファーラ)をせよ、ということである。というのも、この節の啓示の原因は、それを止めたことだからである。

『アッラーはよく聞き』彼らの言葉を。

『よく知り給う御方』彼らの状態を。

アッラーはおまえたちの誓いにおける失言は咎め給わないが、おまえたちの心が得たものについておまえたちを咎め給う。アッラーはよく赦す寛容なる御方。(2:225)

『誓いにおける』その中での。

『失言は咎め給わないが』失言とは、「アッラーに誓って、そうではない」とか、「アッラーに誓ってそうである」など、誓約の意図もなく口から滑って出たもので、それには罪はなく、償い(カッファーラ)も課されない。

アーイシャによると、『アッラーはおまえたちの誓いにおける失言は咎め給わない』という御言葉は、「アッラーに誓ってそうではない」「アッラーに誓ってそうである」と言う者について下された(アル=ブハーリーによる伝承)。

アッラーの使徒は言われた、「それは男が自分の家で、『アッラーに誓ってそうではない』、『アッラーに誓ってそうである』と言うことである」(アブー・ダーウードによる伝承)。

『失言(laghū)』とは、自分が正しいと考えて誓ったことがそうではなかったと判明することである。アブー・ハニーファによれば、それにはカッファーラ(償い)はいらず、それは罪にはならない。アル=シャーフィイーによれば、「アッラーに誓ってそうではない」、「アッラーに誓ってそうである」という言葉についてはカッファーラは課せられないが、なにかについてそうであると考えて誓ったことがそうでなかったことがわかった時にはカッファーラが課せられる。アブー・ハニーファはその逆であると考える。

『おまえたちの心が得たものについておまえたちを咎め給う』つまり、心で意図した誓約をおまえたちが破れば。

『アッラーはよく赦す』失言であったものについては。

『寛容なる御方』懲罰に値する者に懲罰を遅らせ給うことによって。

妻への絶縁を誓った者たちには四ヵ月の待機がある。もしおまえが戻れば、アッラーはよく赦す慈悲深い御方。(2:226)

『妻への絶縁を誓った者たち』つまり、妻と性交をしない、と誓った者たち。

『待機がある』猶予がある。

『もしおまえが戻れば』その間に、あるいはその後に、その誓約から性交に復縁すれば。

もしそれをアッラーに誓っていたのなら、彼には破約に付帯する償いが課される。もし彼に奴隷がいれば、それを解放する(cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.105)。

『よく赦す』彼らを。

『慈悲深い御方』彼らに。

また、もしおまえが離婚を決意したなら、アッラーはよく聞き、よく知り給う御方。(2:227)

『もしおまえが離婚を決意したなら』つまり、その不退転の決意をしたなら、それを確定せよ。

『よく聞き』彼らの言葉を。

『よく知り給う御方』彼らの決意を。その意味は、既述の(4ヵ月の)待機期間の後では、復縁か離婚しか彼らには選択肢はない、ということ。

妻と今後一切の性交を断つ、あるいは4ヵ月以上の長きにわたって断つと誓った者は4ヵ月妻に触れてはならない。その間に、またはその後に誓いを撤回し、性交をしても、誓いによって妻に与えた害についてアッラーは彼を赦し給う。しかし、もし妻の許に戻らないならば離縁させよ。アッラーは彼らの言葉を聞き、彼らの決意を知り給う。

離縁された女は独りで三回の月経を待つ。アッラーが彼女らの子宮に創り給うたものを隠すことは彼女らには許されない、もし彼女らがアッラーと最後の日を信じるならば。彼女らの主人には、彼らが和解を望めば、その間に彼女らを取り戻す一層の権利がある。彼女らには彼女らに良識として課せられたのと同じものがあるが、男には彼女らより一段上位が与えられる。アッラーは威力比類なく、英明なる御方。(2:228)

『離縁された(撤回可能な離婚宣告をされた)女は独りで』結婚せずに。

『三回の月経を』離婚後3回の月経が過ぎるのを。『月経(qurū’)』は第1語根の母音が「a」の「月経(qaru’)」の複数形で、意味は「(経血のない)清浄」説と「経血」説の両説がある。

この規定は床入り後の妻の場合で、床入り前であれば、『おまえたちには彼女らへの待婚期間はない』(第33章[部族連合]49節)との御言葉により、待婚期間はない。老女や幼女については待婚期間は3ヵ月であり、妊婦の待婚期間は第65章[離婚]4節にあるように、出産までであり、女奴隷についてはスンナによって2回の月経である。

『待つ』つまり、待て。

『子宮に創り給うたもの』子供、あるいは経血。

『隠すことは彼女らには許されない』夫の復縁権を消滅させるために待婚期間の終了を早めるため、また、子供を実の父親以外に認知させるために。

『彼女らの主人には』彼女らの夫には。

『彼らが和解を望めば』妻への意地悪でなく、二人の和解を望めば。これはそれ(和解)を考えることを促しているのであって、(離婚宣告)撤回の許可の条件というわけではない。これは撤回可能な離婚についてである。

『その間に』この待婚期間中に。

『彼女らを取り戻す一層の権利がある』彼女に対する離婚の撤回によって。たとえ彼女が拒否しようとも。「一層の権利がある」は優先を意味するわけではない。というのは夫たち以外には、待婚期間中には彼女らとの結婚の権利はないからである。

『彼女らには…がある』夫の上に課せられた。

『良識として』聖法に定められた良いつきあい、虐待をしないことなど。
 
『彼女らに…課せられた』彼ら(夫)のために。

『…のと同じもの』義務・権利のうち。

『男には彼女らより一段上位が与えられる』権利において、彼女らが彼らに服従する、という優位が与えられる。というのは、彼らが払った婚資と扶養費のためである。

『威力比類なく』その主権において。

『英明なる御方』その被造物のために企画実行し給うことにおいて。

離婚は二度である。それから良識をもって引き留めるか、心尽くしをもって去らせるかである。おまえたちには彼女らに与えたものからなにかを取り戻すことは許されない。ただし、おまえたちが、彼ら二人がアッラーの掟に則ることができないことを恐れる場合は別で、彼ら二人がアッラーの掟に則ることができないことを恐れる場合は彼女が贖ったものは彼ら二人にとって罪ではない。これがアッラーの掟である。それゆえ、それを越えてはならない。アッラーの掟を越える者、それらの者こそ不正者である。(2:229)

『離婚は』後で撤回が可能な離婚は。

『二度である』2回である。

ウルワ・ブン・アル=ズバイルが伝えるところによると、かつて男は妻を離縁し、その待婚期間中に取り戻しさえすれば、たとえ1000回離縁しようともそれは男の権利であった。そこで、ある男が妻に悪意を抱いて離縁し、待婚期間が迫ると復縁し、「アッラーにかけて、私はおまえを決して家に入れて養わないが、おまえは再婚を許されることも永久にない」と言った。そこでアッラーはこの節を啓示し給うた。

『良識をもって』損害を与えず。

『引き留めるか』彼女らと復縁するか。

『去らせるか』彼女らを自由にするか。

『…である』その(2回の離婚の)後には、それ(引き留めるか、去らせるか)がおまえたちには課される。

『おまえたちには…許されない』夫たちよ。

『彼女らに与えたもの』婚資で。

『なにかを取り戻す』彼女らを離縁した時に。

『彼ら二人が』その夫婦が。

『アッラーの掟に則ることができないことを恐れる』アッラーが夫婦に定めた権利義務を果たせないことを。(『恐れる(yakhāfā)』は)別の読誦法では受動態で、「彼ら二人に…恐れがある(yukhāfā)」と読む。この場合、『彼ら二人が…則ることができないことを』はその(『恐れる』の)代名詞「彼ら二人」の「内包の言い換え(バダル・イシュティマール)」である。また、二つの動詞(「則る」「恐れる」)の人称接頭辞に上に点を打って二人称で(「おまえたち二人が則る(tuqīmā)」「おまえたち二人が恐れる(takhāfā)」と)読む読誦法もある。

(「彼ら二人に…恐れがある(yukhāfā)」と受動態で読む)この読誦法では、もともとの文は、「後見人たちが、この夫と妻がアッラーの掟に則ることができないことを恐れた場合は別で」であり、主語は後見人で、間接目的語は「夫」、そして「妻」は夫の被接続語であり、「彼ら二人がアッラーの掟に則ることができないことを」は「夫と妻」という目的語の「内包の言い換え」であった。それが主語が省かれて動詞は主語が明示されない受動態になった。そこで実名詞であった間接目的語(夫と妻)の双数代名詞による言い換えが生じ、「彼ら二人がアッラーの掟に則ることができないことを」はそのままの形で「内包の言い換え」になったのである。

『彼女が贖ったものは…罪ではない』夫が彼女を離縁するように、彼女が我が身を贖った代価は。つまり、夫がそれを受け取ること、彼女がそれを払うことは罪ではない。

『これが』上述の諸規定が。

彼が彼女を離縁したなら、その後は、彼女が彼以外の夫と結婚するまで彼には彼女は許されない。もし、彼が彼女を離縁したなら、二人がアッラーの掟に則ることができると考え復縁しても二人に罪はない。これがアッラーの掟で、彼は知る者たちに明示し給う。(2:230)

『彼が彼女を離縁したなら』夫が2回を越えて離縁したなら。

『その後は』3回の離婚の後では。

『彼以外の夫と(結婚するまでは)』アル=ブハーリーとムスリムの伝えるハディースにあるように、別の夫が彼女と性交するまでは。

タミーマ、あるいはアーイシャ・ビント・アブドッラフマーン・アル=カラズィーという名のラファーア・アル=カラズィーの妻がやってきた。彼女は父方の叔父の息子のラファーア・ブン・ワハブ・ブン・アティール・アル=カラズィーの許にいたが、彼が彼女を離縁したのである。そこで彼女は預言者の許にやってきて言った、「私はラファーア・アル=カラズィーの許にいましたが、彼が私を離縁したので、離婚期間を実家で過ごし、その後、アブドッラフマーン・ブン・アル=ザビールと結婚しました。ところが、彼の持ち物は服の房ほどしかありませんでした」。そこで預言者は苦笑して言われた、「おまえはラファーアの許に戻りたいのか。現夫がおまえの蜜を味わい、おまえが彼の蜜を味わうまではできない」(アル=ブハーリー、ムスリムの伝える伝承)。

『結婚する』婚姻を結ぶ。

『彼が彼女を離縁したなら』第二の夫が彼女を離縁したなら。

『復縁しても』待婚期間の終了後に結婚して復縁しても。

『二人に』妻と第一の夫に。

『これが』上記の諸規定が。

『知る者たち』熟考する者たち。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院