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【第2章 雌牛】
(2:135〜2:145)
 

彼らは言った、「ユダヤ教徒に、またはキリスト教徒になれ、導かれよう」。言ってやれ、「いや、ひたむきなイブラーヒームの宗旨に。彼は多神教徒ではなかった」。(2:135)

『ユダヤ教徒、またはキリスト教徒に』『または』は両者を分けるもので、前者(「ユダヤ教徒になれ」と言った者)はマディーナのユダヤ教徒で、後者(「キリスト教徒になれ」と言った者)はナジュラーンのキリスト教徒である。

『言ってやれ』彼らに。

『いや』われわれは従う。

『ひたむきな』『イブラーヒーム』の状態の副詞的修飾句。すべての諸宗教から離れて真正の宗教に傾いた。

言え、「われらは、アッラーと、彼がわれらに下し給うたもの、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤゥクーブと諸支族に彼が下し給うたもの、ムーサーとイーサーが授けられたもの、そして諸預言者たちが彼らの主から授けられたものを信じた。われらは彼らの誰にも区別をつけない。われらは彼に帰依する者である」。(2:136)

『言え』信仰者たちへの語りかけ。

『彼がわれらに下し給うたもの』クルアーン。

『イブラーヒーム…に下し給うたもの』10の啓典。

実際にはそれはイブラーヒームに下されたものであるが、彼の子孫に下されたも同然である。

『ヤゥクーブと諸支族』彼の子孫。

『諸支族(al-asbāt)』「sibt(単数形)」の原義はすべての孫であるが、通例では、「sibt」を「娘の子供」、「hafīd」を「息子の子供」と使い分ける。

『ムーサー…が授けられたもの』律法の書。

『イーサーが授けられたもの』福音書。

この2つが並べて述べられているのは、福音書が律法の書に相反するものではないことを示しているとも考えられる。

『諸預言者たちが彼らの主から授けられたもの』諸啓典と様々な印。

『われらは彼らの誰にも区別をつけない』ユダヤ教徒やキリスト教徒のように、ある者を信じ、ある者を否定する(ことはしない)。

もし彼らがおまえたちが信じたようなものを信じたならば、導かれたのであるが、もし背を向けたならば、彼らは分裂にあるだけである。彼らに対しておまえにはアッラーで十分であろう。彼はよく聞き、よく知り給う御方。(2:137)

『もし彼らが』ユダヤ教徒とキリスト教徒が。

『おまえたちが信じたようなもの』『ような』は虚字。

『もし背を向けたならば』その信仰から。

『分裂』おまえたちとの対立。

『彼らに対してはおまえにはアッラーで十分であろう』かれらの対立に対しては。ムハンマドよ。

クライザ族の処刑、ナディール族の追放、彼らへの貢租の賦課によって、現実に彼にとってアッラーで十分となった。

『彼はよく聞き』彼らの言説を。

『よく知り給う』彼らの実相を。

アッラーの色染めに。アッラーよりも色染めのうまい者が誰かあろうか。われらは彼に仕える者である。(2:138)

『アッラーの色染めに』第136節の『われらは…信じた』を受けた強調の動名詞の同属目的語で対格となっている。つまり「アッラーはわれらを色染めされた」という文が省略されており、その省略された文を受けて対格になっているのである。その(『アッラーの色染め』の)意味するところは、アッラーが人間をその上に創り給うた「アッラーの宗教」ということである。なぜなら、服に染色が現れるように、その影響はその宗徒の上に現れるからである。

「sibgah(色染め)」とは、「清め」「洗礼」の比喩である。

服を染めればその染色の跡が服に残るように、不信仰から清められた信仰者は、その信仰の跡が良い行い、良い性格に現れ出る。

キリスト教徒は、洗礼と称して子供を黄色の水に浸し、その水が子供を清めてくれると考えた。そして、子供に洗礼が施されると、「これでこの子も真のキリスト教徒となった」と言った。そこで、ムスリムたちはキリスト教徒に向かって、「『われらはアッラーを信じた。アッラーはわれらをアッラーの色染めに染め給うた』と言え」と伝えるよう命じられた。

キリスト教徒よ、われらはあなたがたの洗礼によって身を染めはしない、アッラーへの信仰こそがわれらの色染め(洗礼)である。

『色染めの』比較弁別の主題。

『…者が誰かあろうか』つまり、誰もいない。

『われらは彼に仕える者である』ユダヤ教徒はムスリムに、「われわれは最初の啓典の民であり、われわれの礼拝の方向(エルサレム)はより古い。かつてアラブには預言者はいなかった。もしムハンマドが預言者なら、われわれ(ユダヤ教徒)の中から出たはずだ」と言った。そこでこの啓示が下った。

言ってやれ、「おまえたちはわれらとアッラーについて議論するのか。彼はわれらの主であり、おまえたちの主である。われらにはわれらの行いがあり、おまえたちにはおまえたちの行いがある。われらは彼のみに捧げる者である」。(2:139)

ユダヤ教徒はムスリムに向かって、「われらは最初の啓典の民で、われらのキブラ(礼拝の方向)の方が古い。預言者たちはアラブからは出なかった。もしムハンマドが預言者であったら、彼もわれらから出ただろう」と言ったことに対して下された。

「最初の啓典」とは律法の書、「われらのキブラ」とはエルサレムのことである。

『言ってやれ』彼らに。

『アッラーについて』アラブから預言者を選別したことについて。

『議論するのか』論争するのか。

『彼はわれらの主であり、おまえたちの主である』それゆえ、彼には自分のしもべたちの中から御望みの者を選別することができる。

『われらにはわれらの行いがあり』われらはそれによって報われる。

『おまえたちにはおまえたちの行いがある』おまえたちはそれによって報われる。それゆえ、われらの行いの中に、われらがそれによって(預言者選別の)栄誉を得るに値することがあってもおかしくはない。

『われらは彼のみに捧げる者である』われらはおまえたちと異なり、宗教と行いを彼のみに捧げる者である。それゆえ、われらの方が選別にふさわしい。

『…議論するのか』これは非難の疑問文であり、その後の3つの文節は状態の副詞的修飾句である。

『おまえたちはわれらと…議論するのか』の『われら』を受ける(cf., al=Sāwī, Hāshiyah al=Sāwī, vol.1, p.93)。

それとも、おまえたちは、「イブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤゥクーブ、そして諸支族がユダヤ教徒、あるいはキリスト教徒であった」と言うのか。言ってやれ、「おまえたちの方がよく知っているのか、それともアッラーか。アッラーからの証拠を隠す者より不正な者が誰かあろうか。アッラーはおまえたちがすることを見過ごす御方ではない」。(2:140)

『それとも』いや。

『おまえたちは』接頭辞を「ヤーゥ(y)」で「彼らは言う(yaqūlūna)」と読む読誦法と「ターゥ(t)」で「おまえたちは言う(taqūlūna)」と読む読誦法がある。

『言ってやれ』彼らに。

『おまえたちの方がよく知っているのか、それともアッラーか』つまり、アッラーのほうがよく御存知で、イブラーヒームは『イブラーヒームはユダヤ教徒ではなく、キリスト教徒でもなかった』(第3章[イムラーン家]67節)との御言葉で、そのどちらとも無関係な者となっている。また、彼(イブラーヒーム)と共に言及された者たち(イスマーイール、イスハーク、ヤゥクーブ、そして諸支族)も彼に準じる。

『アッラーからの証拠を』アッラーからもたらされた証拠を。

『隠す』人々に対して秘密にする。

『…者より不正な者が誰かあろうか』つまり、それより不正な者は誰もいない。それはユダヤ教徒のことで、彼らは、イブラーヒームがひたむきな(一神教)者であったことに対する律法の書の中のアッラーの証拠を隠した。

『アッラーはおまえたちがすることを見過ごす御方ではない』彼らに対する威嚇である。

「見過ごす者(ghāfir)」とは、なにかを不注意から見落とす者をいう。

それはすでに過ぎ去った民である。彼らにはその稼いだものがあり、おまえたちにはおまえたちが稼いだものがあり、おまえたちが彼らのなしたことを問われることはない。(2:141)

同じ解説は既に述べた(第2章134節)。

第134節の繰り返しで、イブラーヒームを父祖に持つことへの彼らの思い上がりに対する非難である。

人々の中の愚か者たちは言うであろう、「なにが彼らに、彼らの向いていたキブラから背を向けさせたのか」。言ってやれ、「東も西もアッラーのもの。御望みの者をまっすぐな道に導き給う」。(2:142)

『人々の中の』ユダヤ教徒と多神教徒の中の。

『愚か者たち』無知な輩たち。

『言うであろう』未来の辞詞「あろう(sa)」は、未知のことを告げる未来形であることを示している。

あるいは、すでに言われた言葉であるが、その後も繰り返し言われるため未来形が用いられている。

『なにが彼らに…背を向けさせたのか』どんなものが預言者と信仰者たちを逸らせたのか。

『彼らの向いていたキブラから』礼拝において向かっていた方向、つまりエルサレムから。

『東も西もアッラーのもの』つまり、方角はすべてアッラーのもの。それゆえ彼は御望みの方角に向くことを命じ給い、それに反対はできない。

『御望みの者を』導きを授けようと御望みの者を。

『まっすぐな道に』イスラームの教えに。『道(sirāt)』とは「道路(tarīq)」のこと。

『導き給う』つまり、そして、信仰者たちよ、彼ら(アッラーが導き給うた者)の中におまえたちも含まれる。

次節の『こうして』がそれを示している。

こうして、われらはおまえたちを中正の民となした。おまえたちを人々の証人とし、使徒をおまえたちの証人とするために。われらが、おまえが向いていたものをキブラと定めたのは、使徒に従う者を踵を返す者から識別するためにほかならない。まことにこのことは大事であるが、アッラーが導き給うた者たちには別である。アッラーはおまえたちの信仰を無駄にし給う御方ではない。まことにアッラーは人々に対し寛仁で、慈悲深い御方。(2:143)

『こうして』われらがおまえたちをそれ(まっすぐな道)に導いたように。

『おまえたちを』ムハンマドの民(ウンマ)よ。

『中正の民』公正な選良。

『証人とし』復活の日に、彼らの使徒たちが、彼らに使信を伝えたことの。

アッラーは最初の者から最後の者までを一箇所に集め、それから、不信仰者たちに尋ね給う、「おまえたちの許には警告者が来なかったか」。すると、彼らはそれを否定し、「われらの許には警告者は来ませんでした」と答える。そこで、アッラーは預言者たちにそれについて尋ね給う。預言者たちは、「彼らは嘘をついています。われわれは伝えました」と言う。すると、アッラーはその証拠を求め給う。もちろん、彼は彼らに根拠があることを一番よくご存知である。預言者たちは言う、「ムハンマドの民がわれらのために証言します」。そこでムハンマドの民が連れて来られ、彼らは、「預言者たちは確かに伝えました」と証言する。すると、過去の民たちは、「彼らはどこから知ったのだ。彼らはわれらより後の者ではないか」と言う。アッラーがそれを彼らに尋ね給うと、彼らは、「あなたはわれらに使徒を遣わし、われらに書を下し給いました。そしてその中で使徒たちの伝達について告げ給いました。あなたは真実を告げ給うた御方です」と答える。それから、ムハンマドが連れてこられ、彼は彼の民の有り様について尋ねられる。すると彼は彼の民の正しさを認め、彼らの言葉が真実であることを証言する。

『使徒をおまえたちの証人とするために』使徒がおまえたちに使信を伝えたことの。

過去の民に送られた預言者たちは、便りを伝えたという主張が認められず、そのために証人として預言者ムハンマドの民(ウンマ)が呼ばれたが、ムハンマドの民は、便りを伝えたというムハンマドの主張を認めたため、彼にはそのような証人は必要なかった。そのため、彼の主張はそのまま証言とみなされた。あるいは、『使徒をおまえたちの証人とする』とは、使徒が、おまえたちの過去の民に対する証言を証言価値のあるものとして認める、という意味とも言われる。

『おまえが向いていたもの』最初に向いていた方向。それはカアバ聖殿である。かつて預言者はそれに向かって礼拝していたが、ヒジュラ(聖遷)を行ったときに、ユダヤ教徒の懐柔のためにエルサレムを向くことを命じられた。それゆえそちらにむかって16、あるいは17ヵ月にわたって礼拝したが、そこで変更があった。

『キブラと』おまえの今の。

『定めた』成した。

『使徒に従う』そして彼を信ずる。

ここで「おまえ」と二人称から「使徒」と三人称に移っているのは、従わなければならない理由を「使徒」と名指すことによって明白にするためである。

『踵を返す』つまりこの宗教に疑いを抱き、預言者がこの問題で混乱しているのではないかと思って不信仰に戻った。そのために一団の人々が棄教した。

『識別するため』識別が明らかになるため。

『まことに』『まことに(’in)』は促音の名詞導入詞から促音を省いて動詞導入詞となったものであり、その主語名詞は省略されている。つまり、「まことに、それ(’inna-hā)」。

『このことは』つまり、それ(カアバ聖殿)に向きを変えることは。

『大事』困難なこと。

『アッラーが導き給うた者たち』彼らの中でも。

『おまえたちの信仰を無駄にし給う御方ではない』おまえたちがエルサレムに向かって行った礼拝を無駄にし給う御方ではない。いや、おまえたちにそれに報い給う。というのも、啓示の契機となったのは、変更の前に死んだ者に関する質問であったからである。

フヤイー・ブン・アフタブらのユダヤ教徒たちはムスリムたちに、「エルサレムを向いたおまえたちの礼拝について教えてくれないか。もしおまえたちが導きにあったなら、そこからおまえたちは向きを変えたのであり、もしおまえたちが迷いにあったなら、おまえたちはかなりの期間にわたって、アッラーに誤って仕えていたことになる。また、そのまま死んだ者は迷いのうちに死んだことになる」と言った。それに対し、ムスリムたちは、「導きはアッラーの命じ給うたものにあり、迷いはアッラーが禁じ給うたものにあるだけのことだ」と言った。すると彼らは言った、「では、おまえたちのうち、われらのキブラの方を向いて死んだ者についておまえたちはどう証言するのか」。

カアバに変更される以前に、マディーナの代官のうちの二人、ナッジャール族のアスアド・ブン・ザラーラ、サリマ族のアル=バラーゥ・ブン・マウルールらの人々が既に亡くなっていた。そこで彼らの親族たちが預言者のところに行き、「アッラーの御使いよ、アッラーはあなたをイブラーヒームのキブラの方に向けさせ給うたが、エルサレムの方を向いて礼拝をしたまま死んだわれらの兄弟たちはどうなるのか」と尋ねた。そこでアッラーはこの節を下し給うた。

『人々に対し』信仰者に対して。

『寛仁で、慈悲深い御方』彼らの行為を徒労に終らせないことで。寛仁(ra’afah)とは深い慈悲である。(『人々に対し』が倒置されて)前に来ているのは、(『慈悲深い御方(rahīm)』を句末にし)脚韻を「ミーム(m)」で揃えるため。

監訳者注:アラビア語の本来の語順では、「la-ra’ūfun(寛仁で)・rahīmun(慈悲深い)・bi-al-nāsi(人々に対し)」となるべきところを、前節の句末の「まっすぐな(mustaqīm)」と脚韻をあわせるため、倒置し、本節を「慈悲深い(rahīm)」で終えている。

われらはおまえが顔を空に巡らすのを確かに見た。そこでわれらはおまえが満足するキブラにおまえを向かせる。それゆえ、おまえの顔を聖モスクの方に向けよ。おまえたちがどこにいようと、おまえたちの顔をその方向に向けよ。啓典を携えた者たちであれば、それが彼らの主からの真理であると知るであろう。アッラーは彼らのなすことを見過ごす御方ではない。(2:144)

『空に』空の方向に。

『巡らす』向きを変える。啓示を求め、カアバに向えとの命令が下るのを切望して。預言者はかつてからそれを望んでいた。なぜならカアバはイブラーヒームのキブラであったし、またそれゆえアラブをイスラームの入信に呼びかけるのにより魅力的だったからである。

『確かに』確認の辞詞。

『おまえが満足するキブラに』おまえが好むキブラに。

ヒジュラ(聖遷)の後、預言者は、ユダヤ人たちとよい関係を持つためにエルサレムの館の方を向いて礼拝するよう命じられ、それに従った。しかし、彼は本心ではカアバに向かうことを好んでいた。イブラーヒームのキブラであるし、ヒジュラ以前のキブラだったからである。そこで彼はジブリールに、「アッラーが私をカアバ聖殿に向き変え給うことを望むのだが」と言った。するとジブリールは、「私もあなた同様、しもべにすぎない」と言い、天に昇っていった。預言者はジブリールがキブラについて彼の望む命令を携えて下ってくることを願って空を見上げ続けた。そこでアッラーはこの節を下し給うた。

『おまえを向かせる』おまえの方向を変える。

『おまえの顔を…に向けよ』礼拝において…に向けよ。

『聖モスク』つまり、カアバ聖殿。

『…の方に』…の方角に。

預言者はマディーナに移住した後、16ヵ月にわたってエルサレムの館に向かって礼拝をしていたが、バドルの戦いの2ヵ月前のラジャブ月(ヒジュラ暦7月)のある昼下がり、彼は教友たちとともにサリマ族のモスクでズフル(昼)の礼拝の2ラクアを礼拝したところで排水溝の方に向きを変え、モスクの後方に移動し、男女は列を移した。そこで、このモスクはマスジド・アル=キブラタイン(2つのキブラのモスク)と名付けられた。日については、シャアバーン月(ヒジュラ暦8月)の15日の水曜日だったともラジャブ月の15日の火曜日だったとも言われる。アスル(遅い午後)の礼拝の時だったとも言われる。

『おまえたちがどこにいようと』ウンマ(イスラーム共同体)に向けた語りかけ。

『おまえたちの顔をその方向に向けよ』礼拝において。

預言者に命じた後、ムスリムのウンマにキブラに向かうことを命じ給うた。

『それが』つまり、カアバにキブラを変更したことが。

『彼らの主からの』彼らの啓典の中にある、預言者がカアバ聖殿に向かうという記述によって。

『真理であると』確かな真理であると。

『アッラーは彼らのなすことを見過ごす御方ではない』「ターゥ(t)」で「おまえたちのなす(ta‘malūna)」と読む読誦法をとった場合は「信仰者たちよ、(アッラーは)アッラーの命令の遵守を(見過ごす御方ではない)」、接頭辞を「ヤーゥ(y)」で「彼らのなす(ya‘malūna)」と読む読誦法をとった場合は、「(アッラーは)ユダヤ人のキブラの問題における拒絶を(見過ごす御方ではない)」との意味になる。

たとえもし、おまえが、啓典を携えた者たちにすべての印をもたらしたとしても、彼らはおまえのキブラに従わなかったであろう。おまえも彼らのキブラに従う者ではない。互いに互いのキブラに従う者ではない。もし、おまえが、おまえの許に知識がもたらされた後に彼らの欲望に従うならば、その時にはおまえは不正をなす者のひとりである。(2:145)

『たとえもし』「たとえもし(la-’in)」の「la」は誓言導入詞の「la(誓って)」。

『すべての印を』キブラの問題におけるおまえの正しさを証明するすべての印を。

『おまえのキブラに』頑迷さから。

『従わなかったであろう』従わないであろう。

『おまえも彼らのキブラに従う者ではない』彼ら(啓典の民)のイスラーム入信に対する彼(預言者)の期待、および預言者がキブラを元に(エルサレムに)戻すとの彼らの期待を断ったもの。

『互いに互いのキブラに従う者ではない』つまり、ユダヤ教徒はキリスト教のキブラに従わず、逆も同じ。

『知識がもたらされた後に』啓示がもたらされた後に。

『彼らの欲望に従うならば』彼らがおまえをそれに誘う欲望に。

『その時には』仮に、彼らに従ったとすれば。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院