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【第10章 ユーヌス】
(10:22〜10:42)
 

彼こそはおまえたちに陸と海を旅させ給う御方。そして、おまえたちが帆船の上で、それが順風によって彼らを乗せて走ると、彼らはそれを喜ぶが、暴風がそれを襲い、波が四方から彼らに押し寄せ、自分たちが取り囲まれたと思うと、彼らはアッラーに宗教を一心に捧げて祈った、「もしもあなたがこれからわれらを救い給えば、われらは感謝する者となるでしょう」。(10:22)

『彼こそはおまえたちに陸と海を旅させ給う御方』 『おまえたちを・・・旅させ給う(yusayyiru-kum)』とする読誦法と、『おまえたちを・・・散らし給う(yanshuru-kum)』とする読誦法がある。

『帆船の上で』 船の上で。

『順風によって』 穏やかな風によって。

『彼らを乗せて』 二人称から人称が転じている。

『暴風が』 あらゆるものを壊す激しい風が。

『自分たちが取り囲まれた』 滅ぼされた。

『宗教を』 祈りを。

『もしも・・・』 『もしも( la-‘in)』の辞詞「lām」は誓いの辞詞「lām」。

『これから』 この恐怖から。

『感謝する者』 唯一神崇拝者。

そこで彼が彼らを救出し給えば、たちまち彼らは地上で正当な理由もなく不義をはたらいた。人々よ、おまえたちの不義はおまえたち自身に対するものにほかならず、現世の生活の享楽である。それからわれらの許にこそおまえたちの帰り処はある。そして、われらは、おまえたちがなしたことについておまえたちに告げるのである。(10:23)

ハフス&アースィム版:
そこで彼が彼らを救出し給えば、たちまち彼らは地上で正当な理由もなく不義をはたらいた。人々よ、おまえたちの不義はおまえたち自身に対するものにほかならず、現世の生活の享楽を。それからわれらの許にこそおまえたちの帰り処はある。そして、われらは、おまえたちがなしたことについておまえたちに告げるのである。(10:23)

『正当な理由もなく不義をはたらいた』 多神教によって。

『おまえたちの不義は』 不正は。

『おまえたち自身に対するものにほかならず』 なぜならその罪はその(おまえたち自身)の上にかかるものだからである。それは次の行為である。

『現世の生活の享楽である』 おまえたちはそれをわずかに楽しむだけである。『享楽』を対格「matā‘a」とする読誦法では、「享楽をおまえたちは楽しむ」(動詞が省略されている)ということである(監訳者注:ハスフ&アースィム版は、『享楽』を対格とする読誦法を採る)。

『われらの許にこそおまえたちの帰り処はある』 死後に。

『そして、われらは、おまえたちがなしたことについておまえたちに告げるのである』 そして、われらはおまえたちにその報いを与える。

まことに現世の生活の譬えは、われらが空から降らせる水のようである。それによって人間や動物の食べる大地の植物は混ざり合った。そして、ついに大地がその装いをまとい、飾られると、その民は彼らがそれに全権を持つ者と思い込んだ。ある夜、あるいはある日中、そこにわれらの命が訪れ、われらはそれを、まるで昨日まで富んでいなかったかのように、刈り取られたものとなした。こうしてわれらは熟考する民に印を詳説する。(10:24)

『譬えは』 特徴は。

『われらが空から降らせる水』 雨。

『それによって』 それのおかげで。

『人間や動物の食べる』 (人間の食べる)小麦、大麦など。また、(動物の食べる)草など。

『大地の植物は混ざり合った』 互いに複雑にもつれあった。

『その装いを』 植物によってその美しさを。

『飾られると』 花によって。『飾られる( wa-zzayyanat)』は元は「wa-tazayyanat」だが、その派生形第5形の接頭辞「tā‘」が「zāy」に代わり、それが(次の)「zāy」に吸収・同化したもの。

接頭辞「tā‘」が「zāy」に代わり、無母音化し(zzayyanat)、無母音によって読み始めることが難しいために、連結の辞詞「ハムザ(‘)」(hamzah al=wasl)が入る(izzayyanat)(al=Samīn, al=Durr al=Masūn, vol.4, p.21)。

『その民は彼らがそれに全権を持つ者と思い込んだ』 その実りを得ることができると。

『われらの命が訪れ』 われらの決定が。あるいはわれらの懲罰が。

『それを』 その作物を。

『まるで昨日まで富んでいなかった』 まるで(存在し)なかった。

『・・・かのように』 『まるで・・・かのように( ka-‘an)』と促音なし。「ka-‘anna-hā(まるでそれは・・・かのように)」の意。

『刈り取られたもの』 鎌で切り取られたかのように。

『詳説する』 解明する。

アッラーは平和の館に呼び招き、御望みの者を真っすぐな道に導き給う。(10:25)

『平和の館に』 安全の館に。それは楽園のことである。

『呼び招き』 信仰に呼び招くことによって。

『御望みの者を』 導きを(御望みの者を)。

『真っすぐな道に』 イスラームの宗教に。

善を尽くした者たちには最善があり、さらに追加がある。彼らの顔には暗さも屈辱も近づかない。それらの者は楽園の民であり、彼らはそこに永遠に住まう。(10:26)

『善を尽くした者たちには』 信仰によって。

「信仰によって」とは、つまり、たとえ罪があっても、ということである。不従順な信仰者もこの範疇に含まれるのである。

『最善があり』 楽園が。

『さらに追加がある』ムスリムの伝えるハディースにあるように、至高なる御方を眺めることである。

『最善』と『追加』については解釈学者の見解は分かれる。
第1の説によれば、『最善』とは楽園で、『追加』とは高貴なアッラーの御顔を拝することである。これは、アブー・バクル・アル=スィッディーク、フザイファ、アブー・ムーサー・アル=アシュアリー、イバーダ・ブン・アル=サーミトなど教友の一団の見解であり、アル=ハサン、アル=ダッハーク、ムカーティル、アル=シッディーの見解でもある。その正当性はスハイブの伝える伝承による。彼によると、アッラーの御使いは言われた、「楽園の民が楽園に入ると至高なるアッラーは仰せられる、『おまえたちに何か欲しいものがあれば、われは追加を与えよう』。すると彼らは、『あなたはわれらの顔を白くし給うたではありませんか。われらを楽園に入れ給うたではありませんか。われらを獄火から救い出されたではありませんか』と言う。すると彼は覆いを除き給うが、彼らにとって彼らの主を眺めることほど好ましいものは何も与えられなかったのである」。それから彼はこの節『善を尽くした者たちには最善があり、さらに追加がある・・・』を読まれた。
第2の説は、アリー・ブン・アビー・ターリブのもので、彼は言っている、「追加とは、1つの真珠からなる部屋で、そこには4つの扉がある」。
第3の説によれば、『最善』とは善の1つで、『追加』とは善の10倍から700倍のことである。イブン・アッバースによれば、『われらの手には追加がある』(第50章[カーフ]35節)について、「彼は彼らの行いに報い給い、その上、彼の恩寵によって追加を与え給う」と言っている。カターダによると、アル=ハサンは言っている、「善の追加とは、その10倍から700倍のことである」。
第4の説によれば、『最善』とは善に対する善であり、『追加』とは、アッラーからの赦しと御満悦である。これはムジャーヒドの説である。
第5の説によれば、アブー・ザイドによると、『最善』とは楽園のことで、『追加』とは現世で彼が彼らに与え給うものであり、復活の日、彼は彼らには清算をなし給わない。

『暗さも』 黒さも。

『屈辱も』 悲嘆も。

『近づかない』 覆わない。

だが、悪を稼いだ者たち、悪の報いはそれと同じものによる。そして、彼らには屈辱が近づく。彼らにはアッラーから守る者などいない。それはちょうど彼らの顔が闇夜の断片に覆われたようである。それらの者は獄火の民であり、彼らはそこに永遠に住まう。(10:27)

『悪を稼いだ・・・』 多神教をなした。

『・・・者たち』 『(善を尽くした)者たちには』にかかる。つまり、「・・・者たちには」。

『悪の報いはそれと同じものによる』アッラーは、善を尽くした者たちの状態と彼らに用意された栄光について説明し給うた後、この節で、大胆にも悪に向かった者たち、つまり、不信仰と反逆をなした者たちの状態を、悪の報いはそれと同じものによる、と説明し給うた。つまり、彼らには、彼らのなした悪に対する報いが、それと同じだけの懲罰としてあるのである。このように特記されているのは、善の報奨はその行為をなした者への1倍から10倍、さらに700倍と多くの倍増であり、それは彼(アッラー)からの恩恵と気前良さゆえであるが、悪の報いはそれと同じだけであり、それは至高なる御方の公正さゆえである、ということを思い起こさせるためである。

『守る者・・・』 防ぐ者。

『・・・などいない』 『など( min)』は虚字。

『断片に』 『断片』は「 qita‘an」と第二語根「t」を母音「a」で読む読誦法と、「qit‘an」と無母音で読む読誦法がある。「qit‘ah」の複数形。つまり、部分。

『覆われた』 被せられた。

そして、われらが彼らを一斉に集める日、それからわれらは多神を崇めた者たちに言う、「おまえたちとおまえたちの共同者たちは、おまえたちの場所を」。それから、われらは彼らの間を引き離す。彼らの共同者たちは言う、「おまえたちはわれらに仕えていたのではなかった」。(10:28)

『彼らを』 被造物を。

『一斉に集める日』 思い起こせ。

『おまえたちと』 省略された動詞の隠れた人称代名詞を強調するためのもので、それ(省略された動詞)にかかる。

『おまえたちの共同者たちは』 つまり、偶像。

『おまえたちの場所を』 省略されている「付いて離れるな」という動詞の命令形によって対格になっている。

『彼らの間を』 (彼らと)信仰者との間を。

この解説は、前後の文脈から離れている。なぜなら、それらは多神教徒と彼らの神々についての話で、アル=バイダーウィー、アル=ハーズィンなど彼以外の者が唱える別説のほうが有力である。アル=ハティーブによれば、『われらは彼らの間を引き離す』とは、多神教徒たちと彼らの神々を分け、現世で彼らの間にあったきずなを断ち切る、ということである。

『引き離す』 区別する。『罪人たちよ、今日、おまえたちは離れおれ』(第36章[ヤーシーン]59節)とある通りである。

『彼らの共同者たちは言う』 彼らに。

『おまえたちはわれらに仕えていたのではなかった』 辞詞「 mā」は否定の辞詞「・・ではない」。脚韻をそろえるため、目的語が前に来ている。

ムジャーヒドによると、復活の日、彼らがアッラーをさしおいて仕えていた神々が彼らに苦痛を与える時がある。神々は彼らに言う、「アッラーに誓って、われらはおまえたちがわれらに仕えていたことを聞きもしなければ、見もせず、考えもせず、知りもしなかった」。すると、彼らは言う、「アッラーに誓って、おまえたちにわれらは仕えていたのだ」。すると、神々は彼らに言う、「われらとおまえたちの間の証人にはアッラーで足りる。まことに、われらはおまえたちの崇拝については知らなかった。われらはそのようなことは感じないのである」。

「われらとおまえたちの間の証人にはアッラーで足りる。まことに、われらはおまえたちの崇拝については知らなかった」。(10:29)

『まことに』 『まことに(‘ in)』は促音なし。「まことにわれらは(‘in-nā)」の意。

その時、各々は先になしたことを確かめる。そして彼らの真の管理者アッラーの許に彼らは戻され、彼らが捏造していたものは彼らから消えてなくなった。(10:30)

『その時』 その日。

『先になしたことを』 前に行った行為を。

『確かめる』 『確かめる( tablu)』の動名詞は「balwa(試験)」であるが、動名詞「tilawah(読誦)」の2つの「ta‘」(人称接頭辞と語根)で「tatlu(読み上げる)」とする読誦法もある。

「確かめる」とは、「知る」ということである。

『真の』  確かな、永遠の。

『彼らが捏造していたもの』 彼(アッラー)に対して。共同者たち(神々)。

『消えてなくなった』 いなくなった。

言え。おまえたちに空と大地から糧を与えるのはだれか。聴覚と視覚を司るのはだれか。また、死んだものから生きたものを出し、生きたものから死んだものを出すのはだれか。また、物事を采配するのはだれか。彼らは、「アッラーである」と言うであろう。ならば言ってやれ、「それでもおまえたちは畏れ身を守らないのか」。(10:31)

『言え』 彼らに。

『空と大地から』 雨によって、また植物によって。

『聴覚と』 耳、という意味である。

『視覚を司るのは』 それを創ったのは。

『物事を采配するのはだれか』 被造物の間で。

『アッラーである』 それは。

『言ってやれ』 彼らに。

『それでもおまえたちは畏れ身を守らないのか』 彼を。そして、信じないのか。

これがおまえたちの真の主アッラーであらせられる。真理の後には迷誤のほかに何があろう。それなのにいかにしておまえたちは背き去らされるのか。(10:32)

『これが』 こうしたことの本当の行為者が。

『真の』 確かな。

『真理の後には迷誤のほかに何があろう』 断定の疑問文である。つまり、その後にはそれ以外にない。それゆえ、アッラーの崇拝という真理に関して過ちを犯した者は迷誤に陥っているのである。

『いかにして』 どのように。

『おまえたちは背き去らされるのか』 信仰から。明証があるにもかかわらず。

こうして、背いた者に対し、「彼らは信じない」というおまえの主の御言葉は真実となった。(10:33)

『こうして』 これらの者が信仰から背を向けたように。

『背いた』 信仰を拒んだ。

『「彼らは信じない」という』 これが(御言葉の内容である)。

『おまえの主の御言葉は真実となった』 あるいは、それは、『われは火獄を満たす・・・』(第11章[フード]119節など)の節のことである。

言え。おまえたちの神々の中に、創造を始め、それを繰り返す者があるか。言え。アッラーは創造を始め、それからそれを繰り返し給う。それなのにいかにしておまえたちは迷い去らされるのか。(10:34)

『いかにしておまえたちは迷い去らされるのか』 明証があるにもかかわらず、彼への崇拝から逸らされるのか。

言え。おまえたちの神々の中に、真理へと導く者があるか。言え。アッラーは真理へと導き給う。真理へと導く御方が従われるに一層ふさわしいか、それとも、導かれなければ導くことのできない者の方か。それなのにおまえたちはどうしたというのか。どのようにおまえたちは裁定するのか。(10:35)

『真理へと導く者があるか』 根拠を置き、導きを創ることによって。

『真理へと導く御方』 それはアッラーである。

『導くことのできない者』 道を見いだすことのできない者。

『・・・の方か』 従われるによりふさわしいか。断定と非難の疑問文である。つまり、前者の方がよりふさわしい。

『どのようにおまえたちは裁定するのか』 追従されるにふさわしくない者に従うというこの誤った裁定を。

彼らの大半は憶測に従っているだけである。まことに憶測は真理の代用に全く足りない。まことにアッラーは彼らのなすことをご存知であらせられる。(10:36)

『彼らの大半は』 偶像を崇拝することにおいて。

『憶測に従っているだけである』 そのことで彼らの先祖に盲従する際に。

『まことに憶測は真理の代用に全く足りない』 知識が求められる事柄については。

『まことにアッラーは彼らのなすことをご存知であらせられる』 そして、それについて彼らに報い給う。

このクルアーンは、アッラーをさしおいて捏造されることなどありえない。そうではなく、それ以前のものの確証として、また、諸世界の主からの疑いのない啓典の詳説としてである。(10:37)

『アッラーをさしおいて』 彼のほかに。

『捏造されること』 捏造。

『それ以前のもの』 諸啓典で。

『・・・の確証として』 下された。

『疑いのない』 疑念のない。

『啓典の詳説』 アッラーが書き留め給うた諸規定、その他を解明する。

『・・・としてである』 『確証として』にかかる。あるいは、「啓示された」が省略されている。『・・・確証として』、『・・・詳説としてである』を主格として読む読誦法(tasdīquおよびtafsīlu)もある。その場合には、省略された(主語)「それは」が隠れていると考える。

それとも彼らは、「彼がそれを捏造した」と言うのか。言え、「それならば、それと同じような章を持って来い。そして、できるものならだれにでも、アッラーをさしおいて祈ってみるがよい。もし、おまえたちが真実を語る者であるのなら」。(10:38)

『それとも彼らは・・・と言うのか』『それとも・・・か(‘ am)』は『いや、・・・か(bal ‘a)』の意。

『彼がそれを捏造した』 ムハンマドがそれをでっち上げた。

『それと同じような』 雄弁さと修辞学において。

『章を持って来い』 捏造によって。おまえたちも私と同じように雄弁なアラブ人であるのだから。

『アッラーをさしおいて』 彼のほかに。

『祈ってみるがよい』 それ(同じような章を持って来ること)への援助のために。

『もし、おまえたちが真実を語る者であるのなら』 それ(クルアーン)が捏造であるということにおいて。だが、おまえたちはそれができなかった。

いや、彼らは知識で把握できないことや、その解釈がまだ彼らの許にもたらされていないことを嘘だと否定した。このように彼ら以前の者たちも嘘だと否定した。だが、見よ、不正な者たちの結末がどんなであったかを。(10:39)

至高なる御方は仰せられた。『いや、・・・』

『知識で把握できないこと』 つまり、クルアーンである。

『その解釈が』 その中の警告の結末が。

『嘘だと否定した』 彼らはそれを考察しなかった。

『このように』 こうした否定のように。

『彼ら以前の者たちも嘘だと否定した』 彼らの使徒たちを。

『不正な者たち』 使徒を嘘だと否定したことによる。

『・・・の結末がどんなであったかを』 破滅という彼らの終局が。同様に、われらはそれらの者を滅ぼすのである。

彼らの中にはそれを信じる者もあれば、また彼らの中にはそれを信じない者もある。おまえの主は悪人を最もよくご存知であらせられる。(10:40)

『彼らの中には』 つまり、マッカの住民の中には。

『それを信じる者もあれば』 アッラーはその者がそうなることを知っておられる。

アル=バイダーウィーの表現では、彼らの中にはそれを信ずる者、つまり心の中ではそれが真理であると知りそれを認めながら、依怙地に否認している者がいる。あるいは、彼らの中には、将来それを信じ不信仰を悔い改める者もいれば、愚鈍の極みと考察の少なさゆえに心の中でも信じず、将来的にも不信仰のまま死ぬ者もいる。

『また彼らの中にはそれを信じない者もある』 断じて。

『おまえの主は悪人を最もよくご存知であらせられる』 彼らに対する脅しである。

もし彼らがおまえを嘘だと否定するのであれば、言ってやれ、「私には私の行いがあり、おまえたちにはおまえたちの行いがある。おまえたちは私のなすことに無関係であり、私はおまえたちがなすことに無関係である」。(10:41)

『言ってやれ』 彼らに。

『私には私の行いがあり、おまえたちにはおまえたちの行いがある』 つまり、それぞれに己の行いの報いがある。

『おまえたちは私のなすことに無関係であり、私はおまえたちがなすことに無関係である』 この節は「剣の節」(第9章5節『多神教徒は見つけ次第殺せ』)によって破棄された。

彼らの中にはおまえに耳を傾ける者がある。だが、おまえに聾者に聞かせられようか、もし、彼らが悟らないのであれば。(10:42)

『彼らの中にはおまえに耳を傾ける者がある』 おまえがクルアーンを読んだ時に。

『だが、おまえに聾者に聞かせられようか』 自分たちに読み聞かせられたものから益を得ることができない点で、彼らを彼ら(聾者)に譬えている。

『もし、彼らが』 聾であるのに加えて。

『悟らないのであれば』 考察しないのであれば。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版

(2008年5月23日更新)



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