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【第2章 雌牛】
(2:106〜2:119)
 

われらが取り消すか、または取り残す節があれば、それに優るか、同様のものを持ってくる。アッラーがあらゆることに全能であることをおまえは知らないのか。(2:106)
ハフス&アースィム版:われらが取り消すか、または忘れさせる節があれば、それに優るか、同様のものを持ってくる。アッラーがあらゆることに全能であることをおまえは知らないのか。(2:106)

不信仰者たちが啓示の改廃について中傷し、「ムハンマドは教友たちに、今日命じたかと思うと、明日には禁止する」と言った時に啓示された。

『われらが取り消すか』つまり、その規定を、表記を伴うか、伴わないかのいずれかによって、取り消すことである。『われらが取り消す(nansakh)』は、別の読誦法では、動詞第4形完了形「取り消させる(’ansakha)」の未完了形一人称複数「nunsikh」で読む。つまり、「われらがおまえに、あるいはジブリールに、その取り消しを命じる」ということである。

『または取り残す…』われらはそれを遅延させ、その規定は取り消さないが、その節の読誦を取りやめさせる。あるいは、天の「護持された書板」の中にそれを遅延させておく。

その意味は、規定をその節の取り消しより後に残す、ということである。つまり、その読誦は取りやめるが、その規定を残存させること。

別の読誦法では、『われらはそれを取り残す(nansa’a-hā)』の第3語根の文字「ハムザ(’)」なしに、動名詞「忘却」の動詞形を用いて「われらはそれを忘れさせる(nunsi-hā)」とする。つまり、「われらは、おまえにそれを忘れさせる」「おまえの心からそれを消す」ということである(監訳者注:ハフス&アースィム版クルアーンは後者の読誦法を採る。つまり、「われらが取り消すか、または忘れさせる節があれば…」)。

『忘れさせる』とは、アッラーが預言者の心からその節を消し給うたものであるが、既に取り消し給うた節でなければ心から消し給うことはなかった。『おまえは忘れることはない、アッラーが御望みでなければ』(第87章[至高者]6−7節)。

『…節があれば』「…あれば(mā)」は条件の接続詞。

『それに優る』実行が容易であるか、報奨が多いことにおいて人間にとってより益が多い。

例えば、『おまえたちのうち20人強靭な者がいれば、200人を征するであろう』(第8章[戦利品]65節)は、『おまえたちのうち100人強靭な者がいれば、200人を征するであろう』(第8章66節)によって取り消され、軽減された。

『同様のものを』義務賦課と報奨において。

『持ってくる』条件節の帰結節である。

『アッラーがあらゆることに全能であることをおまえは知らないのか』「あらゆること」のうちには、(規定の)取り消しや変更も含まれる。ここで疑問形が用いられているのは確認の意味。

取り消しには3種類ある。第1は、記述も掟も取り消されたものである。

第2は、石打刑のように記述は取り消されたが、掟としては存続したものである。

イブン・アッバースによると、ウマル・ブン・アル=ハッターブはアッラーの御使いの説教壇に座って言った、「アッラーはムハンマドを真理と共に遣わし、彼に書を下し給うた。石打ちの節が下されると、われらはそれを読み、それを暗記し、それを理解した。そして、アッラーの御使いは石打刑を行い、われらも彼に続いて石打刑を行った。人々に時が経って、至高なるアッラーの書には石打刑は見当たらないと言って、アッラーが下し給うた義務を退け、迷誤に陥ることを私は懸念する。まことに、男と女が結婚した後で姦通を犯し、その証拠が成立するか、妊娠するか、自白した者には石打刑がアッラーの書に定められた真理である」(ムスリム)。

第3は、掟は取り消されたが、言葉は残ったもので、そのような節はいくつもある。

天と地の主権がアッラーにあることをおまえは知らないのか。アッラーをおいて守護者も援助者もおまえたちにはないのである。(2:107)

『天と地の主権がアッラーにあることを』彼は天と地において御望みのことを行い給う。

『アッラーをおいて』彼のほかに。

『守護者も』おまえたちを保護する。『守護者も(min walīyin)』の『も(min)』は虚字の「min」。

『援助者も』懲罰がおまえたちを襲った時に、おまえたちからそれを防ぐ。

それとも、おまえたちはおまえたちの使徒に求めたいのか、ちょうど以前ムーサーが求められたように。信仰に代えて不信仰を選ぶ者は、正しい道から迷ったのである。(2:108)

マッカの住民が預言者ムハンマドに、それ(マッカ)を(それを囲む2つの山をなくして)広げ、石を金に変えるように求めた時に下し給うた。

『それとも…か』いや、…か。

『以前ムーサーが求められたように』つまり、彼の民が彼に求めたように。「われらにアッラーをはっきりと見せてくれ」などと言って(第2章55節)。

彼らは、『われらのためにおまえの主に…大地が生やすものを生え出でさせるよう祈ってくれ』(第2章61節)、『われらに彼らの神のような神を作ってくれ』(第7章[高壁]138節)などと頼んだ。

『信仰に代えて不信仰を選ぶ者は』信仰の代わりに不信仰を取る者は。明白な明証について考えることを放棄し、それ以外のものをしつこくねだることによって。

『正しい道から迷った』真理の道を誤った。「正しい」の原義は「中庸の」。

啓典の民の多くは、おまえたちが信仰した後に不信仰者に戻せるならば、と望んでいる。真実が彼らに明らかになった後でありながら、自分たちの妬み心から。それゆえ、アッラーが命令をもたらし給うまで許し、見逃しておけ。まことに、アッラーはすべてのことに全能であらせられる。(2:109)

『…戻せるならば、と望んでいる』『…ならば(law)』は不定詞句的動名詞の仮定詞「law」(つまり、「(戻す)こと」を望んでいる)。

ウフドの戦いの後、ユダヤ教徒たちはフザイファ・ブン・アル=ヤマーンとアンマール・ブン・ヤースィルの二人に、「おまえたちにふりかかったものを見たか。もし、おまえたちが真理の上にあったならば、おまえたちが敗走することはなく、おまえたちにふりかかったことはおまえたちに起こらなかっただろう。だから、われらの宗教に戻って来い。そのほうがおまえたちにとって良いことだ。われらの方がおまえたちよりも導かれているのだ」と言った。アンマールは、「おまえたちは約束を破ることをどう見るか」と尋ねると、「それは重大な事だ」と言った。すると、アンマールは、「私は至高なるアッラーに、生きている限りムハンマドを裏切らないと約束したのである」と言った。そこで、ユダヤ教徒たちは、「こいつはどうかと言えば、こいつは消え失せた」と言った。一方、フザイファは、「私の方はどうかと言えば、私はアッラーを主とし、イスラームを宗教とし、クルアーンを導師とし、カアバをキブラ(礼拝の方向)とし、信者を兄弟とすることに満足した」と言った。それから二人はアッラーの御使いの許に行くと、あったことを話した。すると彼は、「あなたがたは良いものを得、成功した」と言われた。すると、アッラーがこの節を下し給うた。

『真実が』預言者に関する。

『彼らに明らかになった』律法の書の中で。

『自分たちの』つまり、彼らの醜い心が彼らを預言者への攻撃に向かわせた。

『妬み心から』動詞『望んでいる』の「理由の目的語(maf‘ūl la-hu)」。

『アッラーが命令をもたらし給うまで』彼らに。戦争の。

戦いの命令があるまで、ということである。したがって、この節は戦闘の許可が下りる以前の啓示と考えられる。(この節の冒頭に引用した『アル=ジャマル脚注』にあるように)これがウフドの戦い以後に啓示されたと考える者もいるが、その場合には、この時点では戦闘はアラブの多神教徒に対しては許されていたが、ユダヤ教徒、キリスト教徒に対してはまだ許されていなかったということになる。ユダヤ教徒、キリスト教徒との戦争の許可が下りたのは、アラブとの戦闘許可より遅れて、「部族連合の戦い」の時、あるいはその直前であった。

『許し』彼らを。つまり、彼らを捨ておけ。

『見逃しておけ』遠ざかり、彼らに報復するな。

「許す(‘afā)」は罪を帳消しにすること、免じることを意味し、「見逃す(safaha)」も似た意味で、許す、放っておく、という意味である。また前者は、罪に対する罰の放棄を意味し、後者は、罪に対する咎めの放棄であるとも言われる。

また、礼拝を守り、喜捨を払え。おまえたちがおまえたち自身のために前もってなした善行は、おまえたちはアッラーの御許にそれを見い出そう。まことに、アッラーはおまえたちのなすことを見通し給う御方。(2:110)

『善行は』親戚付き合いや喜捨などの服従行為(及び、反逆行為を避けること)。

『それを見い出そう』つまり、その報奨を。

『アッラーはおまえたちのなすことを見通し給う御方』そして、それに対しておまえたちに報い給う。

彼らは、「ユダヤ教徒、またはキリスト教徒でなければ楽園には入らない」と言った。それが彼らの望みである。言ってやれ、「おまえたちの証拠を持って来い、もしおまえたちが正しいのであれば」。(2:111)

『ユダヤ教徒』『ユダヤ教徒(hūd)』は「ユダヤ教徒(hā’id)」の複数形。

動詞「hāda」とは「戻る(tāba)」、「帰る(raja‘a)」の意味で、その能動分詞が「hā’id」。

『「…楽園には入らない」と言った』マディーナのユダヤ教徒とナジュラーンのキリスト教徒が預言者の前で言い争った時に言った。つまり、ユダヤ教徒は、「楽園に入るのはユダヤ教徒だけだ」と言い、キリスト教徒は、「楽園に入るのはキリスト教徒だけだ」と言った。

『それが』その言葉が。

『彼らの望みである』彼らの妄想である。

『言ってやれ』彼らに。

『おまえたちの証拠を』それについてのおまえたちの論拠を。

『もしおまえたちが正しいのであれば』そのことにおいて。

いや、己の顔をアッラーに差出し、善を尽くす者であれば、彼には主の許にその報酬がある。そして彼らには恐怖はなく、彼らは悲しむことはない。(2:112)

『いや』そうではなく、彼らの他にも楽園に入る者はいる。

『己の顔をアッラーに差出し』つまり、彼の命令に服従し。「顔」を特記しているのは、それが身体の中で最も高貴な部位であり、それ以外の部位は言うまでもないからである。

顔は身体のうち最も高貴な部分である。なぜならばそこは、五感の殆どが集まる感覚の座であり、サジダ(跪拝)の場所であり、謙虚さが一番現れるところである。

『善を尽くす者』唯一神崇拝者。

『その報酬がある』つまり、彼の行為の報い、楽園が。

『恐怖はなく、彼らは悲しむことはない』来世で。

ユダヤ教徒は、「キリスト教徒は何にも則っていない」と言い、キリスト教徒は、「ユダヤ教徒は何にも則っていない」と言う。彼らは啓典を読んでいるというのに。それと同じように、知らない者たちは彼らの言うことと同じことを言う。アッラーは復活の日に彼らの間で対立したことについて判定を下し給う。(2:113)

『何にも』依るべきなにものにも

『則っていない、と言い』そして、彼ら(ユダヤ教徒)はイーサーへの不信仰に陥った(と言い)。

『何にも』依るべきなにものにも。

『則っていない、と言う』そして、彼ら(キリスト教徒)はムーサーへの不信仰に陥った。

『彼らは』両派とも。

『啓典を読んでいる』彼らに啓示された啓典を。ユダヤ教徒の啓典にはイーサーの信仰が、キリスト教徒の啓典にはムーサーの信仰があった。この文章は状態の副詞的修飾句である。

『それと同じように』彼らが言ったのと同じように。

『知らない者たちは』アラブの多神教徒やその他の者たちは。

『彼らの言うことと同じことを』(『それと同じように』の)「それ」の意味の説明。つまり、彼らも「どの宗教の信徒も、何にも則っていない」と言う。 

『対立したことについて』宗教の問題で。

『判定を下し給う』そして真実を述べた者は楽園に、虚偽を述べた者は獄火に入れ給う。

アッラーの跪拝所で彼の御名が唱えられるのを妨害し、それを破壊しようと試みる者以上に不正な者が誰かあろうか。それらの者は恐る恐るしかそこに入るべきではなかった。彼らには現世において恥辱があり、彼らには来世において大いなる懲罰がある。(2:114)

『アッラーの跪拝所で彼の御名が唱えられるのを』礼拝や賛美で。

「跪拝所(masjid、モスク)」とはサジダ(跪拝)する場所のことである。

『破壊しようと試みる』壊したり使えなくしたりして。ローマ軍がエルサレムの神殿を破壊したことについて、あるいは、多神教徒たちがフダイビーヤの遠征の年にカアバ聖殿に向かおうとする預言者を妨害したことについて告げるものとして啓示された。

イブン・アッバースによると、キリスト教徒のローマ王ファラチウスはユダヤ教徒を殺し、子供達を捕虜にし、律法の書を焼き、エルサレムの神殿を破壊し、死体をそこに投げ捨て、豚をそこで殺した。ウマルの時代にムスリム軍がそれを建てなおすまで破壊されたままであった。

『…以上に不正な者が誰かあろうか』それより不正な者は誰もいない。

クルアーンに『アッラーに対して作り事を言う者より不正な者が誰かあろうか』『彼の主の印について語る者より不正な者が誰かあろうか』『アッラーに対して嘘をつくより不正な者が誰かあろうか』など同形式の節があるが、いずれかが「最も不正」であれば、他のものはどうなるのか、との質問には以下の2通りの答えがある。

(1)それぞれは別の文脈にある。妨害者の中では跪礼所の妨害者より不正な者はなく、作り事を言う者の中ではアッラーについて作り事を言う者より不正な者はなく、嘘をつく者の中ではアッラーについて嘘をつく者より不正な者はいないのである。

(2)どれも等しく「最も不正」であり、順位の差はなく、誰も他の者がより不正ということはない。

『それらの者は恐る恐るしかそこに入るべきではなかった』命令の意を持った叙述文である。つまり、ジハードによって彼らを恐れさせよ、そうすれば誰も安心してそこに入ることはないであろう。

この節から、アブー・ハニーファは非ムスリムがモスクに入ることは許されるとし、マーリクは全面的に禁止とし、アル=シャーフィイーは、聖モスクについては禁止であるが、他のモスクはムスリムの許可があり、必要があった場合には許されるとした。

『恥辱』殺害、捕囚、貢租による恥辱。

『大いなる懲罰がある』それは獄火である。

東も西もアッラーのものである。それゆえ、おまえたちがどこを向こうと、そこにアッラーの御顔はある。まことにアッラーは広大にして、全知なる御方。(2:115)

キブラがエルサレムからマッカに変更になったことについてユダヤ教徒が中傷したことに対して、あるいは、旅行中に乗り物上で乗り物がどこを向こうとナフルの礼拝(義務以外の礼拝)を捧げることに関して下された。

キブラがエルサレムからマッカに変更になったことについてユダヤ教徒が中傷し、「彼らはキブラも定まっていない。時にはこちらを向き、時にはあちらを向く」と言ったことに対して、あるいは、旅行中、預言者がマッカからマディーナに向かう途中、乗り物がどこを向こうと、その上でナフルの礼拝(義務以外の礼拝)をされたことに関して下された。

『東も西も』大地はどこも。なぜなら双方はその二つの端だから。

跪拝所(モスク)でアッラーの御名が唱えられることを阻止したり、跪拝所を破壊しようとしても、それ以外の場所で崇拝行為を捧げる者を阻止することはできない。東も西も、その間もすべてアッラーのものなのである。

『おまえたちがどこを向こうと』アッラーの命令により礼拝でおまえたちの顔をどちらに向けようと。

『そこに』そこには。

『アッラーの御顔はある』アッラーが嘉し給う彼のキブラ(礼拝で向かう方向)は。

『アッラーは広大にして』彼の恩寵は万物に及ぶ。

『全知なる御方』彼の被造物の思惑について。

また彼らは、「アッラーは子供を持ち給うた」と言う。称えあれ彼こそは超越者。いや、天と地にあるものは彼に属し、すべてが彼に恭順である。(2:116)

『また』『また(wa)』を読む読誦法と、読まない読誦法がある。

『彼らは』つまりユダヤ教徒、キリスト教徒、および、天使はアッラーの娘たちである、と主張する者。

ユダヤ教徒は、「ウザイル(エズラ)はアッラーの息子である」と言い、キリスト教徒は、「マスィーフ(メシア・イエス)はアッラーの息子である」と言う。

アッラーは(次のように)仰せられた。

『称えあれ、彼こそは超越者』彼をそれ(子を持つこと)から超越せしめて。

『天と地にあるものは』所有物として、被造物として、そして奴隷として。所有物であることは子を持つことと対立する。理性を有さないものを優先させ、(「者(man)」ではなく)「もの(mā)」と表現している。

『すべてが彼に恭順である』服従している。

『すべて』とは、前の句の『(天と地にある)もの』の指示対象であるが、ここでは(『恭順である(qānitūn)』と)理性のある者を重視している(理性を有する者にしか使わない男性規則複数形としている)。

天と地を創始し給う御方。彼が事を決め給うた時には、それにただ、「あれ」と仰せられれば、それはある。(2:117)

『天と地を創始し給う御方』両者を存在せしめた御方。先立つ原型に基づくことなしに。

『事を』事の生起を。

『決め給うた』御望みになった。

『「あれ」と仰せられれば、それはある』つまり、(「あれ」と仰せられた)そのものがある。(ここでは未完了形語尾で「ある(yakūnu)」と読んでいるが)別の読誦法では、命令節を受けた応答節として動詞対格(語末母音a)で(「あるのである(yakūna)」:動詞未完了接続形と)読む。

また、知らない者たちは、「アッラーがわれらに話しかけるか、印をもたらし給うことはないのか」と言う。こうして、彼ら以前の者たちも彼らの言うようなことを言った。彼らの心は似通っているのである。われらは確信する者たちには数々の印を明らかにしている。(2:118)

『知らない者たちは…言う』つまり、マッカの不信仰者たちは、預言者に。

『アッラーがわれらに話しかけるか』「おまえがアッラーの使徒である」と。

『印を』おまえの真実性を証しする。われらが求めるような。

『もたらし給うことはないのか』もたらし給わないのか。 

『こうして』これらの者たちが言ったように。

『彼ら以前の者たちも』過去の諸民族も、彼らの預言者たちに。

『彼らの言うようなこと』いやがらせや印の要求。

『彼らの心は似通っている』不信仰と頑迷さにおいて。これは預言者への慰撫である。

『確信する者たちには』それらが印であることを知り、信仰する者たちに。

『数々の印を明らかにしている』それゆえ、それらの印の上に更に印を求めることは嫌がらせである。

まことにわれらは、おまえを吉報伝達者として、また警告者として真理と共に遣わした。火獄の輩について、おまえが問われることはない。(2:119)

『おまえを』ムハンマドよ。

『吉報伝達者』それに応える者に楽園を(宣告する)。

『警告者』それに応えない者に獄火を(宣告する)。

『真理と共に』導きと共に。

『火獄の輩』獄火の輩。つまり、不信仰者。

「火獄(jahīm)」とは、「燃える(jahama)」という動詞からの派生語で、烈火を意味する。

『おまえが問われることはない』「どうして彼らは信じなかったのか」(と、おまえは復活の日に問われることはない)。おまえの義務はただ伝えるだけである。(『おまえが問われることはない(la tus’alu)』は)別の読誦法では、語尾が子音で終る(動詞未完了短形)「問うな(tas’al)」として禁止命令形で読む(つまり、「復活の日に彼らがどのような状態にあるかを問うな。それはおぞましいもので、現世でそれを見ることはおまえには耐えられないからである」)。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院