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【第2章 雌牛】
(2:1〜2:24)
 

マディーナ啓示。286、あるいは287節。

アブー・フライラによるとアッラーの御使いは言われた、「あなたがたの家を墓にしてはならない。まことにシャイターン(悪魔)は第2章[雌牛]が読まれる家から逃げて行く」(ムスリムの伝える伝承)。

またアッラーの御使いは言われた、「すべてのものにはコブ(卓越した部分)がある。クルアーンのコブは第2章[雌牛]で、その中にはクルアーンの節のうち頭の節がある。それは、第255節[アーヤ・アル=クルシー(台座の節)]である」(アル=ティルミズィーの伝える伝承)。

クルアーンを読む時にはイスティアーザ(魔除けの句「’a‘ūdhu bi-llāhi min al-shaitān al-rajīm)を唱えることが好ましい。『おまえがクルアーンを読んだ時には呪われたシャイターンからアッラーに守護を求めよ』(第16章[蜜蜂]98節)。

「シャイターン(悪魔)」は、慈悲から遠ざけられることを意味する動詞「shatana」からの派生語である。「rajīm(呪われた)」とは、「悪の囁きや悪事をもたらす者」「天の知らせを掠め聞こうとした際に流れ星によって追われた者」「石打の懲罰を受けた者」「慈悲と善から追い払われた者」などを意味すると言われる。イスティアーザは、至高なるアッラーから注意を逸らせるすべてのものから心を清める。また、それはしもべが己の弱さ、無力さを認め、あらゆる害を除く力を持ち給うアッラーの威力を認めること、そしてまたシャイターンが大敵であることを認めることである。

「バスマラ(慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において)」が章の1節かそうでないかについては見解が分かれる。アル=シャーフィイーをはじめとする一団の学者はこれを章の一部をなす1節と見なす。アル=アウザーイー、マーリク、アブー・ハニーファによれば、バスマラは第1章[アル=ファーティハ]の1節ではなく、他の章においても(蜜蜂章の中の1節を除き)同様で、章の区切りと祝福祈願のために書かれたものにすぎない。アル=シャーフィイーからは、バスマラはアル=ファーティハの中ではその一部をなす1節であるが、他の章ではそうではない、という見解も伝えられている。

アリフ・ラーム・ミーム(2:1)

この意味はアッラーのみがご存じである。

クルアーンの一部の章の冒頭にはアラビア語文字の半数にあたる14文字のうちから数文字を組み合わせた文字が置かれる。

第1「ジュズゥ(部:クルアーン全体は30部に分割される)」の最初の「ルブウ(4分の1)」は4つの構成からなっている。第1は信者について、第2は不信仰者について、第3は偽信者について、第4はその三者全てについてのものである。

それなる書物は、それになんの懸念もない、畏れる者たちへの導きである。(2:2)

『それ』つまり「これ」

『書物は』ムハンマドが読む書は(他の預言者の書ではない)。

『それに』「それがアッラーからのものであること」に。この否定文(…懸念もない)は述語であり、その主語は『それ』である。『それ』(遠称指示詞)による指示は敬意の表明のためである。

『懸念』疑い。

心の動揺とも、疑念、嫌疑、欠乏感の3つの意味があるとも言われる。

『畏れる者たち』命令を守り、禁止を避け、そうすることによって火獄を恐れ身を守るためにタクワー(畏敬)に向かう者。

導きは畏れる者だけのものである。なぜなら、彼らこそがそれ(クルアーン)に導きの灯火を求め、それから益を引き出そうとするからである。

『導きである』ガイドである。第二の述部。

それは見えないものを信じ、礼拝を守り、われらが糧として与えたものから施しをする者たち。(2:3)

『見えないものを』復活、楽園、火獄など目に見えないものを。

『信じ』真実と認め。

『礼拝を守り』礼拝をあるべき形で果たし。

『われらが糧として与えたものから』われらが彼らに恵んだものから。

『施しをする』アッラーへの服従において。

義務の喜捨(ザカー)、家族の扶養といった義務的施し、または、自発の喜捨(サダカ)を行うことである。

そしておまえに下されたものとおまえ以前に下されたものを信じ、来世を確信する者たちである。(2:4)

『おまえに下されたものと』クルアーンと。

『おまえ以前に下されたものを』(モーセの)律法の書(タウラー:トーラー)や福音書などを。

『来世を』来世とそこでなされる清算と報いなど。

『確信する者』知る者。

なにかについて疑念の余地なく確かに知ること。過去の啓典の民たち(キリスト教徒やユダヤ教徒ら)の来世に対する信仰が不確かで、確信に至ることがないのと対照的である。

それらの者は彼らの主からの導きの上にあり、それらの者こそ成功者である。(2:5)

『それらの者』上述の者たち。

『成功者』楽園を得、火獄から救われる者たち。

まことに信仰を拒否する者たちは、おまえが警告しようと警告しまいと同じで、信じはしない。(2:6)

『信仰を拒否する者たちは』アブー・ジャハルやアブー・ラハブ等。 

『おまえが警告しようと』「警告しようと(’a’andharta-hum)」の二つのハムザ(’)を発音する読誦法、後ろのハムザを(長母音の)アリフ(ā)に変換する読誦法、またハムザを軽く発音し(タスヒール)、その軽い発音の二つのハムザの間にアリフを挿入する読誦法としない読誦法がある。

『警告しまいと同じで、信じはしない』アッラーは彼らが決して信じないことをご存じである。それゆえ彼らが信仰するなどと期待するな。警告とは、脅しを伴う知らせである。

アッラーが彼らの心と聴覚を封じ、彼らの目の上には覆いを被せ給うた。彼らには重い懲罰がある。(2:7)

『アッラーが彼らの心…を封じ』アッラーが彼ら(不信仰者)の心に蓋をし、きつく閉め給うた。それゆえ真理は彼らの心に達しない。

『聴覚を』つまりその(聴覚の働く)様々な場を。それゆえ彼らは真理を耳にしても、そこから益を得ることがない。

『彼らの目の上には覆いを』カバーを。それゆえ彼らは真理を認識しない。

心は知識の場で、それは聴覚か視覚を通してもたらされる。

『重い懲罰』強烈で永遠に続く懲罰。
ここから先では偽信者たちについて啓示されている。

彼らの外面的振る舞いと内面の真相を明らかにし、彼らの末路、彼らの愚かさの暴露、彼らに対する嘲弄について述べる。

また、人々の中には、「われらはアッラーと最後の日を信じる」と言う者ながら、信仰者ではない者たちがいる。(2:8)

『最後の日』つまりは復活の日である。日々の最後だから(そう呼ばれる)。

それは復活と清算の日であり、楽園の住人が楽園に、そして火獄の住人が火獄に入る日のことである。「最後の日」とは「永遠の時」を意味する、との説もある。

『信仰者ではない者たち』ここでは(関係代名詞)「…者(man)」の実質的意味に応じて文法的に複数形とされている。他方、『…と言う』の代名詞の方は、(「…者(man)」が文法上は単数形であることから)その語(の形態上の単数性に応じて文法的に単数形)である。

彼らはアッラーと信仰する者たちを欺いているが、彼らが欺いているのは彼ら自身にほかならない。だが、彼らは感じていない。(2:9)

『彼らはアッラーと信仰する者たちを欺いている』現世的な便宜のために表面は信仰を装っているが、内心にあるのは不信仰である。彼らは信者の秘密を探りだして敵対者に暴く一方で、他の不信仰者たちが被ること(成敗、捕虜、人頭税の支払いなど)から逃れようとしているのである。

『彼らが欺いているのは彼ら自身にほかならない』なぜなら、彼らの欺きの害は彼ら自身に立ち返り、彼らの内心はアッラーが預言者に暴き給い、彼らは来世で懲罰を受けるからである。

『彼らは感じていない』彼らが自分たち自身を欺いていることを知らない。ここでの「欺き(動名詞形:mukhāda‘ah)」は「私は泥棒を罰した(‘āqabtu)」という場合(一方的行為でありながら双方向の行為を示す動詞派生形第2形「‘āqaba」が用いられている)と同じく一方的行為である。アッラーはここでは「欺き」という言葉で比喩的な文飾を用い給うているのである。

『欺いているのは…ほかならない』『欺いているのは…ない(mā yakhda’ūna)』は読誦法によっては(受身形で)「欺かれているのは…ほかならない(mā yukhda’ūna)」、(派生形第2形で)『欺いているのは…ほかならない(mā yukhaddi’ūna)』(ほぼ同義)、(派生形第8形で)『欺いているのは…ほかならない(mā yakhaddi’ūn)』(ほぼ同義)[(接頭辞の)「ヤーゥ(y)」に母音符号「ア(a)」を付し、(第2語根「ダール(d)」を)促音で読むyakhaddi’ū naは元は(派生形第8形)yakhtadin’ūaであったものが(派生文字のtが第2語根のdに)吸収同化されたものである]という読み方もある(cf., al=Samīn al=Halabī, al=Durr al=Masūn , Beirut, 1994, vol.1, p.115)。

彼らの心には病がある。それゆえアッラーは彼らの病を増し加え給うた。彼らには嘘をついたがゆえに痛烈な懲罰がある。(2:10)

『彼らの心には病がある』疑いや偽善。それが彼らの心を病ませる、つまり弱らせたのである。

彼らが信仰を持たないのもそのせいである。病とは体に発症し、それによって体のバランスを崩し、動きを損なわせ、時として死を招くものである。その比喩で言うなら、彼らの心は無知と間違った信仰と預言者への敵意などの病に冒され、それが彼らの魂の破滅を招くのである。彼らの心は、失った権力への痛恨と、使徒が日に日に勢力を強めることへの妬みに燃えている。

『それゆえアッラーは彼らの病を増し加え給うた』彼らのクルアーンに対する不信仰ゆえにクルアーンを下し給うことによって。

彼らの不信仰はクルアーンが啓示され、新たな義務が増える度にますます強まっていくのである。

『嘘をついたがゆえに』(動詞派生形第2形で)第2語根を重ねて「嘘つきと考え(yukadhdhibuna)」(つまり「アッラーの預言者を嘘つきと考えた」)と読む読誦法と、「嘘をついた(yakdhibuna)」(つまり「『われらは信じる』との彼らの言葉で嘘をついた」と(動詞原形で読む)読誦法がある。

『痛烈な』苦痛を与える。

「地上で害悪をなしてはならない」と彼らが言われると、「我らは改善者にすぎない」と言う。(2:11)

『地上で害悪をなしてはならない』不信仰と信仰の妨害によって。

『…と彼らが言われると』つまりそれらの偽信者たちが。

『「我らは改善者にすぎない」と言う』そして我々のしていることは悪いことではない、と。アッラーはそれを次節で論駁し給う。

「害悪をなす(fasada)」の意味は、ものごとの正常な状態を損なわせることで、「地上で害悪をなす」とは戦争の扇動や、人々の正しい品行を失わせ、現世の生活と来世の準備を乱す誘惑と不和の種を蒔いたりすることである。ところが心に病のある彼らには自分たちのなす悪が善と映っているので、そのように(我らは改善者にすぎない、と)うそぶくのである。『己の行いの悪を美化し、それを善と見る者があろうか』(第35章[創造者]8節)。


いや、まことに彼らは害悪をなす者である。ところが、彼らは感じていない。(2:12)

『いや』注意喚起のための言葉。

『まことに彼らは害悪をなす者である。ところが、彼らは感じていない』それを。

つまり、彼らがしていることが善ではなく悪であることを、あるいはアッラーが預言者に彼らの行っている悪を教え給うていることを。

「人々が信じたように信じよ」と言われると、彼らは、「愚か者たちが信じたようにわれらも信 じるというのか」と言う。いや、まことに彼らこそ愚か者である。ところが彼らは知らない。(2:13)

『人々が』預言者の教友たちが。

『愚か者たちが』無知な者たちが。

『「…われらも信じるというのか」と言う』つまり我々は彼らが(信仰)したようには(信仰)しない、と言う。これに対し、アッラーは次節で論駁し給う。

『ところが彼らは知らない』そのことを(つまり彼ら自身が愚か者であることを)。

善を勧め、悪を禁じる精神から信者たちが偽信者にアドバイスし、悪を止め、信仰するように言うと、彼らは誤った信念ゆえに、また信仰者の多くが貧しく、ビラールやスハイブのような元奴隷であった者もいたため、彼らのことを見下して、「なぜ、われらがあの愚か者たちのように信じたりするのだ」と言う。彼らは表向きはムスリムであるため、この言葉はひそかに彼らだけの間で言ったものであるが、アッラーはそれを彼の預言者と信者たちに告げ給うた。

第9節、第12節では『彼らは感じていない』と感覚の否定であるに対し、ここでは『彼らは知らない』と知識の否定になっている。これは、彼らが害悪をなしていることは熟考するまでもなく、五感で分かることであるのに対し、第13節は信仰の問題で、それには判断と信仰に導く十分な考察が必要なためである。


信仰する者に出会えば、「われらは信じた」と言うが、彼らの悪魔たちの許に引きこもると、「まことにわれらはおまえたちと共にある。われらは愚弄する者にすぎない」と言う。(2:14)

『…出会えば』出会えば(laqū)は元の形はlaqiyuw であったが発音が難しいので先ずu が省略され(laqiyw)、次いで「ワーウ(w)」の文字の子音と子音として連続するために「ヤーウ(y)」が省略され(laqiw)、次いで母音の「イ(i)」が「ワーウ(w)」との親縁性から母音の「ウ(u)」に変わっているのである(laquw = laqū)。

『彼らの悪魔たちの許に』彼らの頭領たち(また、彼らのシャーマンたち)の許に。

「彼らの悪魔」とは、彼らの頭領格の者たちを指すが、それは彼らの謀反は悪魔の業に似ていたからである、と言われる。

『…引きこもると』彼らの許から。戻ると。

『われらはおまえたちと共にある』宗教(イスラーム)において。

『われらは愚弄する者にすぎない』信仰を装うことによって彼ら(信仰者)を。

この節の啓示は実際の出来事がきっかけとなっている。(偽信者の頭目)イブン・ウバィイは、彼らに忠告するためにやって来た教友たちに出会った際、仲間に、「私があれらの愚か者をあなたがたからいかにやり過ごすか見ていなさい」と言い放つと、アブー・バクルの手を取って言った、「誠実なる者にしてイスラームの長よ、ようこそ」。次いで、ウマルの手を取って言った、「分別の者にして宗教において力強き者よ、ようこそ」。次いで、アリーの手を取ると言った、「預言者の伯父の息子にしてハーシム家の長よ、ようこそ」。すると、アリーは彼に言った、「アブドッラーよ、アッラーを畏れよ。心にもない偽りを言ってはならない」。するとイブン・ウバィイは答えた、「なんと、アブー・アル=ハサン(アリー)よ、アッラーに誓って、私がそのように言うのは、われらの信仰があなたがたの信仰と同じだからにほかならない」。そう言うと彼らは離れていった。その後、イブン・ウバィイは仲間に言った、「私のやったことをどう思うか。彼らに会ったら、おまえたちも私がやったようにするがいい」。すると彼らは彼を称えて言った、「おまえが我らのうちにいる限り、良いことは尽きない」。一方、ムスリムたちは預言者の許に戻り、このことを彼に告げた。その時にこの節が下されたという。 

アッラーは彼らを愚弄し、彼らを無法のうちに留め置き給い、彼らはさ迷い続ける。(2:15)

『アッラーは…彼らを愚弄し』彼らの愚弄に対して彼らに報復し給い。

『無法のうちに』不信仰によって法を超えたことによる。

『彼らを…留め置き給い』彼らを猶予中となし給い。

愚弄という醜い行為はアッラーとは無縁のものであるが、ここでは不信者の行いと語彙を合わせるために愚弄という言葉を使っている。『悪への報いはそれと同じだけの悪である』(第42章[相談]40節)、『おまえたちに敵対する者には彼の敵対と同じように敵対せよ』(第2章[雌牛]194節)などの例と同じである。

『さ迷い続ける』混乱し、右往左往する。状況の副詞的修飾句である。

これらの者は、導きに代えて迷いを買い取った者たちで、彼らの商売は儲からず、彼らは導かれる者ではなかった。(2:16)

『導きに代えて迷いを買い取った…』つまり、導きと迷いを交換した。

『彼らの商売は儲からず』つまり、その売買では儲からず損をする。彼らの末路は永遠に留まることとなる獄火だからである。

『彼らは導かれる者ではなかった』彼らの行ったことにおいて。

彼らの譬えは、ちょうど火を熾し、それが周囲を照らした途端に、アッラーが彼らの火を取り上げ、彼らを闇に置き去りにし給うたために見えなくなった者たちのようである。(2:17)

『彼らの譬えは』彼らの偽善の性質を譬えるならば。

『ちょうど火を』闇の中で

『熾し』点火し。

『それが周囲を照らした途端に』それが周囲を明るくし、それで見えるようになり、暖を取り、恐怖から免れたところで。

『アッラーが彼らの火を取り上げ』火を消し。『彼ら』と複数形になっているのは文末の『…見えなくなった者』という関係代名詞の実質的意味が複数であることを汲んでのことである。

『彼らを闇に置き去りにし給うたために見えなくなった者たちのようである』自分たちの周りが(見えなくなった)。道に迷って恐怖に駆られ。同様に彼ら(偽信者)も信仰告白の言葉を表明したことで(現世では)安全を得たが、死後には恐怖と懲罰が彼らを襲う。

聾で、唖で、盲であり、彼らは戻らない。(2:18)

『聾で』彼らは。真理に対して。それゆえ彼らは真理に耳を傾けて従わない。

『唖で』善について口を利けず、良いことを語らない。

『盲で』導きの道について。それゆえそれを見ない。

『戻らない』迷いから。

あるいは、空からの雨雲のようでもある。そこには闇と雷と稲妻があり、雷鳴からの死を恐れて彼らは指を耳に差し込む。アッラーは不信仰者たちを取り囲んでおられる。(2:19)

『あるいは』彼らを譬えれば。

『空からの』雲からの。

『雨雲のようでもある』つまり雨をもたらす雲。「雨雲(sayyib)」の原形は「降らす」の意味の動詞「sāba」の派生形の「saywib」。

『そこには』雲には。

『闇』深い。

『雷』雷の管理を委ねられた天使。雷鳴とも言われる。

『稲妻』光線。雷が雨雲を操る鞭。

『雷鳴』その音の激しさ。

『…からの』…ゆえの。

『死を』雷鳴を耳にしたがゆえの。

『恐れて』怯えて。

『彼らは』雨雲に遭った者たちは。

『指を耳に差し込む』指先を。それを聞かないですむようにと。

クルアーンの中には暗闇のような不信仰についての言及があり、雷のような警告があり、稲妻のような明証があるが、それが啓示されると偽信者たちは信仰に心が傾かないようにと耳に栓をして聞くまいとする。というのは彼らにとっては己の宗教を捨てることは死にも等しいからである。

『アッラーは不信仰者たちを取り囲んでおられる』知識と力によって。それゆえ、逃れることはできない。

稲妻は彼らの視力を奪わんばかりである。光る度に彼らはその中を歩くが、闇が彼らを包めば立ち止まる。アッラーが望み給うたなら、彼らの聴覚と視覚を取り去り給うたであろう。まことにアッラーはすべてのものに全能であらせられる。(2:20)

『稲妻は彼らの視力を奪わん…』それを即座に取り去る。

『…ばかりである』しようとしている。

『光る度に彼らはその中を歩くが』つまり、その光の中を。

『闇が彼らを包めば立ち止まる』立ちすくむ。

クルアーンの中にある明証に彼らが心をいらつかせ、自分たちの好むことを聞けば同意し、嫌なことを前にすると立ち止まることの比喩。

クルアーンが明証を示すと、彼らの心は落ち着きをなくし、命、財産、戦利品の保証など気に入ったものは受け入れ、礼拝や斎戒など嫌なものには当惑して立ち止まる。

『彼らの聴覚』諸聴覚(複数)。

『視覚を取り去り給うたであろう』外的(身体的)視覚をも、内的視覚(判断力)を取り去ったと同様に取り去り給うたであろう。

アッラーがお望みであったなら、心の耳や目だけでなく、実際の聴覚、視覚も奪い給うたであろう。しかし、アッラーはそうはなさらず、彼らに現状のままの猶予を与え給うたが、それは、彼らが迷妄と悪事を重ね、その結果、彼らの受ける懲罰が一層厳しいものとなるためである。 

『まことにアッラーはすべてのものに』お望みになるすべてのものに。

『全能であらせられる』その中には既述のものを取り去ることも含まれる。

人々よ、おまえたちの主に仕えよ。おまえたちを創り給うたおまえたちの主に。そしておまえたち以前の者たちをも。きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう。(2:21)

『人々よ』マッカの民よ。

『仕えよ』ただおひとりに専従せよ。

『おまえたちを創り給うたおまえたちの主に』おまえたちが何物でもなかったところからおまえたちを生じせしめ給うた主に。

『そしておまえたち以前の者たちをも』創り給うた(おまえたちの主に)。

『きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう』彼への崇拝行為によって彼の懲罰から身を守るであろう。『きっと(la‘alla)』という表現は、一般には期待の表現であるが、至高なるアッラーの御言葉においては必然を表す。

おまえたちに大地を寝床として、また空を建物として創り、空から水を下し、それによって果実をおまえたちへの糧として出でさせ給うた御方である。それゆえ、知っていながらアッラーに同位の者を置いてはならない。(2:22)

『大地を寝床として』状態の副詞的修飾句。その上に定住が不可能なほど極端に硬くも柔らくもない広げられた敷物として。

『また空を建物として』屋根として。

『創り』創造し。

『果実を』種々の果実を。

『おまえたちへの糧として』おまえたちがそれを食べそれを家畜の飼料とする。

『知っていながら』アッラーが創造者であり、彼らが創造したのではなく、創造する者のほかに神はいないことを知っていながら。

『アッラーに同位の者を…』崇拝において共同者とされるものたちを。

もしおまえたちに、われらがわれらのしもべに下したものへの疑念があるなら、それと同様の章を持ってくるがよい。アッラー以外のおまえたちの証人たちを呼ぶがよい、おまえたちが真実の者ならば。(2:23)

『われらがわれらのしもべに下したものへの』ムハンマドに下したクルアーンについて、それがアッラーの御許からのものであることに。

『疑念があるなら』疑いがあるなら。

『それと同様の章を持ってくるがよい』啓示されたものと(同じ)。「min」は説明の辞詞。つまり、修辞と構成の美しさと幽玄界についての知らせにおいて、それと同じもの(章)を。「章」とは初めと終わりのある一纏りであり、最小の章は3節からなる。

『アッラー以外の』アッラーとは別の。

『おまえたちの証人たちを…』おまえたちが崇拝しているおまえたちの神々を。おまえたちのことを見届けさせるために。

彼らの神々のことを「証人」と呼んでいるのは、審判の日にアッラーの御前で彼らの崇拝の正しさをその神々が証言してくれるだろうと彼らが信じているからである。

『おまえたちが真実の者ならば』「ムハンマドがそれ(クルアーン)を自分ででっちあげた」と言うことにおいて。それならそうして(それと同様な章を自分たちでも作って)みよ。おまえたちは彼と同じ雄弁なアラブ人なのだから。そして彼らができない場合について、至高なるアッラーは次節のように仰せられる。

もしおまえたちにできなければ −おまえたちにできはしない−、人間たちと石を燃料とする火を畏れ身を守れ。それは不信仰者たちに用意された。(2:24)

『もしおまえたちにできなければ』おまえたちの無力さゆえに上述のことができなければ。

『おまえたちにできはしない』永遠にそれは(できはしない)。それができないことは明らかだからである。これは挿入句である。

『人間たちと』不信仰者と。

『石を燃料とする』それ(石)からできた彼らの偶像のような。これは、獄火が、木などで燃える現世の火とは違って、既述のもの(人間と石)で燃えるとてつもなく熱いものだという意味である。

『畏れ身を守れ』アッラーへの信仰と、クルアーンが人間の言葉ではないことの信仰によって。

『それは不信仰者たちに…』この句は新しい文章であるか、(前文の『火』の)必然的随伴を表す状態の副詞的修飾句。

『用意された』準備された。それによって彼らは懲罰を受けるのである。


転載:「ジャラーラインのクルアーン注釈」
中田香織 訳
中田 考 監訳
日本サウディアラビア協会出版



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2005年 アラブ イスラーム学院