イスラーム研究 月刊『道(タオ)』掲載 
18贖罪

人間は罪を犯す存在
 罪を贖うということはイスラームにおいては大変に重要な主題です。これによって、イスラームと他の宗教の違いが際立ちます。
 人間は天使のようではないことをイスラームは十分に理解しています。天使は決して間違いをしませんし、罪を犯すこともありません。一方、人間は常に罪を犯します。
 預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)は、次のように述べています。
「アーダムの子供達は全て、罪を犯す者である。その中で最も優れた者は悔い改める者である」
 殆どの宗教でよく知られていますが、アーダムは神の御命令に背き、シャイターン(サタン)の誘いに乗って、神が食することを禁じた木からのものを食べてしまいました。
 アーダムの犯した大罪は、彼が悔い改めの気持ちを神に示した時に許されました。そこで、彼は罰を受けることはなく、代わりに妻ハウワー(イヴ)と一緒にこの地に降りて来ました。
 この話は、『聖クルアーン』の中にあります。
「『アーダムよ、あなたとあなたの妻は楽園に住み、随所であなたがた(の好むものを)食べなさい。
只この樹に近付いて不義を犯してはならない』
その後悪魔〔シャイターン〕はかれらに囁き、今まで見えなかった恥ずかしいところを、あらわに示そうとして言った。
『あなたがたの主が、この樹に近付くことを禁じられたのは、あなたがたが天使になり、また永遠に生きる(のを恐れられた)からである』
そしてかれは、かれら両人に誓っ(て言っ)た。
『わたしはあなたがたの心からの忠告者である』
こうしてかれは両人を欺いて堕落させた。かれらがこの木を味わうと、その恥ずかしい処があらわになり、2人は園の木の葉でその身を覆い始めた。
その時主は、かれらに呼びかけて仰せられた。『われはこの木をあなたがたに禁じたではないか。また悪魔〔シャイターン〕は、あなたがたの公然の敵であると告げたではないか』
かれら両人は言った。『主よ、わたしたちは誤ちを犯しました。
もしあなたの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば、わたしたちは必ず失敗者の仲間になってしまいます』
かれは仰せられた。『あなたがたは落ちて行け、あなたがたは互いに敵となるであろう。
あなたがたには地上に住まいと、一定の期間の恵みがあろう』」
(第七章(高壁章)十九~二十四節)

スラームにおける贖罪の考え方
 以上のことから、贖罪についてのイスラームの考えを知ることが出来ます。他の宗教での贖罪に対する考えとは違い、イスラームでは、犯した罪がどんなものであろうとも、その罪を犯した人が心からその罪を悔い、二度と繰り返さないと決心したならば、その罪は許されます。
 また、罪を犯した人は自分の罪を拭うために他の人のところへ行くということはすべきではありません。同様に、許しを得るために、人の前で告白する必要もありませんし、自分自身を傷つける必要もありません。イスラームでは告白という概念を認めてはいません。
 さらに、自分の犯した罪を他の人に教えること自体が罪だと見なされます。イスラームは罪を犯した人を保護しようとしているのです。ある人が犯した罪を、その人以外が知るべきものではありません。ですから、唯一神アッラーの前で(神とその人との間で)悔い改めればそれで十分で、彼の罪は自動的に贖われます。

タウバ(悔悟)
 イスラームにおいて、罪には二つの種類があります。それは、大罪と小罪です。
 殺人や姦通、酒を飲むことは大罪に属します。一方、嘘をつくことや、詐欺は、小罪に属します。しかし小罪も、それが日常的に繰り返されれば大罪となります。
 イスラームにおいては、あらゆる罪は贖うことが出来ます。『クルアーン』の中でアッラーはこう仰っています。
「自分の魂に背いて過ちを犯したわがしもべたちに言え、『それでもアッラーの慈悲に対して絶望してはならない』
アッラーは、本当に凡ての罪を赦される。
かれは寛容にして慈悲深くあられる」
(第三十九章(集団章)五十三節)
 小罪は色々な方法によって贖うことが出来ます。その中の例をいくつか挙げましょう。
・貧しい人々にお金を寄付する、・他の人々を助ける、・日中の間断食をする、等です。
 イスラームでは罪は本来、アッラーか人間の二つのうちのどちらかに関連しているものです。たとえば、ある人がお酒を飲んだとします。これは、イスラームでは大罪に属し、また、神と関連する罪です。(つまり、お酒を飲んだ人とアッラーとの関係ということです。)この罪を贖うことが出来るのは、悔悟という行為のみです。
 一方、ある人が誰かのお金を盗んだとします。これも罪の一つですが、この場合は人と関連する罪です。(つまり、盗んだ人と盗まれた人との関係ということです。)この罪は次の二つのことが揃って初めて贖うことが出来ます。つまり、・悔悟すること、それと、・持ち主にお金を返すことです。
 後者に属するものには、「人の悪口を言う」ことも入ります。これもイスラームでは罪であり、この罪は、・悔悟することと、・悪口を言った対象の人々に許しを求めること、の二つによってのみ贖罪することが出来ます。
 以上のことから、イスラームにおいての贖罪で最も大切なことは「タウバ(悔悟)」だということがお分かりになられたかと思います。そして、悔悟には次の三つのことが伴われていなければなりません。
・その罪を行なうことを止める。
・その罪を犯したことを心から悔い改める。
・その罪を二度と犯さないと固く決意する。
 さらに、その罪が人と関連するものならば、もう一つ条件があります。
・その罪に関連する人々に許しを求める。
 さらに、この悔悟が本当だと認められ、その人が誠実になったならば、その人の過去の罪は全て報酬に変わることもあります。このことは『クルアーン』にも述べられています。
「アッラーとならべて、外のどんな神にも祈らない者、正当な理由がない限り、アッラーが禁じられた殺生を犯すことなく、
また姦婬しない者である。
だが凡そそんなことをする者は、
懲罰される。
復活の日には懲罰は(罪に応じ)倍加され、その(地獄で)屈辱の中に永遠に住むであろう。
悔悟して信仰し、善行に励む者は別である。
アッラーはこれらの者の、いろいろな非行を変えて善行にされる。
アッラーは寛容にして慈悲深くあられる」
(第二十五章(識別章)六十八~七十節)

預言者も罪を犯す
 イスラームでは、預言者達も単なる人間であり、間違えや罪を犯すことがあると信じています。(しかし、大きな間違えや罪を犯すことはありません。なぜならば、彼らはアッラーに守られているからです。)そのために、彼らもまた、アッラーに許しを乞います。
 このことについての例を挙げましょう。それは、預言者ヨナのことです。彼は人々が自分のことを信じないことに怒り、アッラーからの御許しを得ずに海に向かいました。アッラーはそのことに御怒りになり、魚(クジラ)に命じて、ヨナを飲み込ませました。しかし、食べてはいけないと命じました。この話は『クルアーン』の中に次のように書かれています。
「だから忍耐して、あなたの主の命令を待て。
魚の友(著者註、預言者ヨナ)のようであってはならない。
苦しさの余り(かれが)叫んだ時(のように)。
主からの恩恵がかれに達しなかったならば、
かれは罪を負わされ、不面目に不毛の地に捨てられたであろう」
(第六十八章(筆章)四十八、四十九節)
 この話は、別の箇所に次のように続きます。
「またズン・ヌーン(編註、ヨナ)である。かれが激怒して出かけた時を思い出しなさい。
かれは、われが自分を難儀させるようなことはないと思いながらも、暗闇の中で、
『あなたの外に神はありません。あなたの栄光を讃えます。本当にわたしは不義な者でした』と叫んだ。それでわれはかれに応え、かれをその苦難から救った。
われはこのように、信仰する者(著者註、唯一の神を信じ、悪を断ち、正義を行なう者)を救助するのである」
(第二十一章(預言者章)八十七、八十八節)
 我々イスラーム教徒は、我々のすぐ近くにアッラーがいらっしゃると信じています。アッラーは人々がアッラーの元に帰り、アッラーに悔悟し、唯一神アッラーのみを崇拝することを御望みです。『クルアーン』の中で、アッラーは預言者ムハンマドにこう仰っています。
「われのしもべたちが、われに就いてあなたに問う時、(言え)われは本当に(しもべたちの)近くにいる。
かれがわれに祈る時はその嘆願の祈りに
答える。
それでわれ(の呼びかけ)に答えさせ、われを信仰させなさい、
恐らくかれは正しく導かれるであろう」
(第二章(雌牛章)百八十六節)

決して赦されない罪
 イスラームにおいて、最大の罪であり、そして唯一赦されない罪は、アッラーを崇拝する際にアッラーに並ぶものを立てることです。このことについて『クルアーン』に次のように書かれています。
「本当にアッラーは、(何ものをも)かれに配することを赦されない。それ以外のことについては、御心に適う者を赦される。
アッラーに(何ものかを)配する者は、まさに大罪を犯す者である」
(第四章(婦人章)四十八節)
「全ての人を善行へと御導き下さい」。 (続く)

 

     
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